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お問い合わせは、 info@gunmawen.net本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。2016年10月04日
バブル経済復活!!
バブル経済復活!!
崩壊した銀行不倒神話。給料もポストも減り、逆境にさらされても―銀行員(バンカー)よ、顔を上げろ!融資課長・半沢直樹の意地と挑戦を描く痛快長篇。
昔、山一證券てぇのがあってバブルで破たん・・・・
「社員は悪くありません」って号泣して見せた野沢ちゃん。
そらそうです、悪いのは政府なんですから
9月のお金の量412兆円10カ月連続で過去最高
日銀は4日、金融機関からの国債買い入れなどで世の中に供給しているお金の総額が9月末時点で前年同月末比22.0%増の412兆8432億円になったと発表した。10カ月連続で過去最高を更新した。
日銀が供給している資金の量は「マネタリーベース」と呼ばれる。金融緩和の目安とされ、日銀は物価の2%上昇目標実現のため、年約80兆円ずつ増やすことを目標に国債などを買い入れてきた。9月に目標をお金の量から金利に切り替えており、今後の増加ペースが注目される。
9月のマネタリーベースのうち、金融機関が日銀の当座預金に預けている残高は28.7%増の311兆8346億円。
<引用:共同通信 2016/10/4 10:35>
http://this.kiji.is/155850947646767107?c=39546741839462401
>世の中に供給しているお金の総額が9月末時点で前年同月末比22.0%増の412兆8432億円に
まあ、だいたい4割の家計所得がふつうで400万円台・・・・・
でも2割が200万円前後の貧困層だっていうんだから、子ども食堂とか。
つうことは、世の中にお金は回ってません。銀行っていう組織は金貸しですから本来が。
下層国民は相手にしませんから、結構難しい商売です。
まっ、サラ金一掃しちゃってしっかりマーケティングしてるようだけど、新規の被害者は少なそう。
じゃあ、どこへお金が行ってるかってぇと、コレです↓
「投資価値ある提案を」 ぐんぎん証券が開業
2016/10/4 06:00
群馬銀行の証券子会社「ぐんぎん証券」が3日、開業した。
日銀のマイナス金利政策の影響で金融機関を取り巻く収益環境が厳しさを増す中、より専門的な金融商品を提供することで多様な顧客の運用ニーズに対応し、収益機会の拡大を目指す。
同日、前橋市本町の本店営業部(同行前橋支店3階)で記念式典を開いた。
<引用:共同通信 2016/10/4 06:00>
http://this.kiji.is/155782347751523831
つまり、お上がいくらアベノミクスだからて、銀行にカネくべても銀行燃えません。
だって、中小零細、カネ借りてやる商売、アベノミクスでできません・・・・・
そらそうです、子ども6人に一人が貧困つうことは、イマドキ普通に子ども2人がいいとこですから、そしたら3割が貧困。
だから、子ども食堂時代なんですね。
まあ、政府も金貸しみたいなもんですから、金貸しは金貸しにしか金貸しません。
で、銀行だって、日銀から押し貸しさせられて、貸すあてないから小金持ちをだまそうっていう魂胆。
まあ、それだってアベノミクス」の差し金で、そこそこ資産のある公務員の年金、大企業勤めだったネギカモ族。
「株、いいのがあるんです、あなただけに教えます。資金も用意させていただきます」
バブルです。そうやってNTT株買って青ざめてる人、まあ、あの時代そこそこ稼いでたバブル自営業者が丁度今高齢者。
まあ、どっち道先は短いんだし、銀行証券だって商売ですからそこそこ遊ばせて、銀行、資産知ってますから・・・・・
葬式代くらいは残しておいて全部、カッパぎます。だって、雨の日に傘取り上げて、晴れた日に傘なんですから。
ましてや、お一人様の高齢者だったら、金持ってたってうるさいこと言ったら近寄りませんから、銀行証券様バブル。
そら年間に412兆8432億円もあった、使うとこがないんじゃあ、アベノミクス、オリンピックでバブルしかない。
なんたって、金利ゼロなんだから今んところ、そしたら、あおってあおって優良顧客に資金提供して億ションバブル。
まあ、金利ゼロつうことは資本主義じゃあないわけです。
それでも、99%の国民にはお金廻さないどころか増税ですからまれにみる悪政ですね。
バブル経済復活!!
崩壊した銀行不倒神話。給料もポストも減り、逆境にさらされても―銀行員(バンカー)よ、顔を上げろ!融資課長・半沢直樹の意地と挑戦を描く痛快長篇。
昔、山一證券てぇのがあってバブルで破たん・・・・
「社員は悪くありません」って号泣して見せた野沢ちゃん。
そらそうです、悪いのは政府なんですから
9月のお金の量412兆円10カ月連続で過去最高
日銀は4日、金融機関からの国債買い入れなどで世の中に供給しているお金の総額が9月末時点で前年同月末比22.0%増の412兆8432億円になったと発表した。10カ月連続で過去最高を更新した。
日銀が供給している資金の量は「マネタリーベース」と呼ばれる。金融緩和の目安とされ、日銀は物価の2%上昇目標実現のため、年約80兆円ずつ増やすことを目標に国債などを買い入れてきた。9月に目標をお金の量から金利に切り替えており、今後の増加ペースが注目される。
9月のマネタリーベースのうち、金融機関が日銀の当座預金に預けている残高は28.7%増の311兆8346億円。
<引用:共同通信 2016/10/4 10:35>
http://this.kiji.is/155850947646767107?c=39546741839462401
>世の中に供給しているお金の総額が9月末時点で前年同月末比22.0%増の412兆8432億円に
まあ、だいたい4割の家計所得がふつうで400万円台・・・・・
でも2割が200万円前後の貧困層だっていうんだから、子ども食堂とか。
つうことは、世の中にお金は回ってません。銀行っていう組織は金貸しですから本来が。
下層国民は相手にしませんから、結構難しい商売です。
まっ、サラ金一掃しちゃってしっかりマーケティングしてるようだけど、新規の被害者は少なそう。
じゃあ、どこへお金が行ってるかってぇと、コレです↓
「投資価値ある提案を」 ぐんぎん証券が開業
2016/10/4 06:00
群馬銀行の証券子会社「ぐんぎん証券」が3日、開業した。
日銀のマイナス金利政策の影響で金融機関を取り巻く収益環境が厳しさを増す中、より専門的な金融商品を提供することで多様な顧客の運用ニーズに対応し、収益機会の拡大を目指す。
同日、前橋市本町の本店営業部(同行前橋支店3階)で記念式典を開いた。
<引用:共同通信 2016/10/4 06:00>
http://this.kiji.is/155782347751523831
つまり、お上がいくらアベノミクスだからて、銀行にカネくべても銀行燃えません。
だって、中小零細、カネ借りてやる商売、アベノミクスでできません・・・・・
そらそうです、子ども6人に一人が貧困つうことは、イマドキ普通に子ども2人がいいとこですから、そしたら3割が貧困。
だから、子ども食堂時代なんですね。
まあ、政府も金貸しみたいなもんですから、金貸しは金貸しにしか金貸しません。
で、銀行だって、日銀から押し貸しさせられて、貸すあてないから小金持ちをだまそうっていう魂胆。
まあ、それだってアベノミクス」の差し金で、そこそこ資産のある公務員の年金、大企業勤めだったネギカモ族。
「株、いいのがあるんです、あなただけに教えます。資金も用意させていただきます」
バブルです。そうやってNTT株買って青ざめてる人、まあ、あの時代そこそこ稼いでたバブル自営業者が丁度今高齢者。
まあ、どっち道先は短いんだし、銀行証券だって商売ですからそこそこ遊ばせて、銀行、資産知ってますから・・・・・
葬式代くらいは残しておいて全部、カッパぎます。だって、雨の日に傘取り上げて、晴れた日に傘なんですから。
ましてや、お一人様の高齢者だったら、金持ってたってうるさいこと言ったら近寄りませんから、銀行証券様バブル。
そら年間に412兆8432億円もあった、使うとこがないんじゃあ、アベノミクス、オリンピックでバブルしかない。
なんたって、金利ゼロなんだから今んところ、そしたら、あおってあおって優良顧客に資金提供して億ションバブル。
まあ、金利ゼロつうことは資本主義じゃあないわけです。
それでも、99%の国民にはお金廻さないどころか増税ですからまれにみる悪政ですね。
バブル経済復活!!
2016年10月04日
団塊世代「青春の光と影」(渋谷ジャンジャン)
団塊世代「青春の光と影」(渋谷ジャンジャン)
新井薬師
僕は、帝京大学に通う高校時代の友人「宮田」を頼って「聖蹟桜ヶ丘」の宮田の下宿にひとまず居候を決めた。しかし一週間もしないうちに結局、そいつの親父というのが下宿にやってきて息子の学業の邪魔になるから他所に行ってくれないか―――と。
しかし僕も、身勝手な話だとは思ったが無遠慮に僕の事情を話した。
「そうか、しかし、君には悪いが息子との同居止めてくれないか。その代わりと云ってはなんだが新井薬師の知り合いのアパートを世話するよ」。
「分かりました」
「悪いなぁ・・・・・」
宮田はは申し訳なさそうに僕に言ったが、別に僕はそんな事はどうでも良かった、それよりも早々に塒を落着けて「音楽修行」になんとしてでも道筋をつけたかった。
宮田の親父は元々軍医で防衛庁の病院に勤務をする傍ら「帝京大学」の医学部講師をしていた。
宮田も一八〇センチを有に超える大男だが、親父さんも「デカイ」。兄貴も姉さんも「デカイ」。巨人一族であった。何でもお祖父さんも「デカ」かったそうである。宮田家は群馬町の旧家で一家揃って一風変わっていて世俗的ではなかった。
僕は親父さんにその場で西武新宿線「新井薬師」のアパートの地図を書いてもらうと早速宮田の下宿を後にした。
西武新宿線の新井薬師のアパートはその年の春まで宮田の兄貴が暮らしていた。何でも宮田の兄貴、年は宮田、僕等より8つ上なのだが二浪して早稲田に入り、大学院で卒業したのが30歳くらいだったと宮田が云っていた。
「道具、みんな使っていいから。家賃だけ、7,500円払ってね」
と親父さんから言われていたので〈まあ、寝られればいいか〉くらいで、親父さんに書いてもらった地図と預かった鍵を手に道順を辿った。
アパートは新井薬師の駅から歩いて4、5分の所だった2階建てで階段を上ると廊下を挟んで部屋が3部屋づつ並ぶ。便所は共同、当時としては当り前で今のような「マンション」のマの字も無かった時代だった。道具とは云っても多少の食器とガスコンロに布団一式くらいだったがその時の僕には充分すぎるほどの設備だた。
部屋は薄暗い階段を上がって二回の奥まった「1K」。もちろん陽など当たるはずも無い、今にして思えば当時流行り、都会の「アパート暮らし」。それでも膨らんだ夢がそんな生活空間をも楽しませてくれた。
もちろん「音楽修行」とは云うものの別に当てがあるわけでもなかった。今のように「ライブハウス」とやらがそこいら中にあるわけでもなく、ましてやひとつの「ブーム」が去ったあとでそれまでの音楽シーンの盛り上がりは何処にも無かった。
結局、僕はつまるところアルバイトの明け暮れ。新宿南口に集合する「夜勤」のバイト。それは川崎の工業団地で夜食、朝食付きで2700円くらいだっただろうか、結構なバイトだった。
当時は、オイルショック真っ盛り、かと云って高度成長も頂点を極める時代で高田馬場公園、戸山公園辺りの「地下鉄工事人足」あたりも、夕方黒山に集まるもののあっという間にマイクロバスで闇に消えていった。地下鉄工事の徹夜はバイト料はいいけど「キツイ」。それに下手に怪我でもしたら「バンド」どころではなくなるので、新宿南口「清涼飲料」のビンの再生工場の検品のアルバイトで糊口を凌いだと云うわけである。そんなある日、そこで一緒にバイトをしていた「岩手」盛岡か「デザイナー修行に東京へ来たと云うやつが・・・・
「陸送のいいバイトがあるから一緒に面接に行かない」と誘ってきた。
陸送のアルバイト
やはり川崎である。「三菱ふそう」のトラックを全国各地の販売店に「陸送」する仕事。
「う~ん。俺、バンドの練習あるしな」
実はバンドの練習などはなかったのだが、そのつもりでの「東京生活」。なにも普通の生活をするために出てきたのではないのだし、ただ秋に「渋谷ジャンジャン」のオーディションを申し込んでるだけでそのための「練習」だけだが。
陸送のバイト、一切拘束なしで行ける日に出て行って配車を貰う。
バイトも決まって久しぶりに宮田と飯を食った。飯とは言っても僕のお気に入りの新井薬師駅の「やきそば」。これが美味いのなんのって、今でいえばB級グルメ五つ星(笑)。大盛りのそれを食い終わる頃宮田が言った・・・・・
「トラックって、大型だろ」
「いやっ、4トン半だって。大阪の寝屋川って云うとこが一番多いらしいけど、帰りの新幹線代と、日当込みで1万7千円だって云うよ」
なんでもその他、本州、道続きは何処へでも行くって云う。結局、面接に行って免許証を見せて連絡先は電話が無ければ駄目だと云うので高崎の実家に住所を移して。
その陸送のアルバイトで、青森、秋田、盛岡、仙台、郡山、山形、新潟、北陸から関西近畿、広島、島根間で行った。「オイルショックの」最中、高速道も「阪神」まで、その先の山陽道は未開通で、燃料を途中給油するにも「行列」のありさま。しかし帰りは飛行機…兎に角忙しくて忙しくて、戻れば直ぐに次の配車が待っている状態。稼ぎにはなったがこれでは「音楽修行」がと、悩んでいる所だった。
そんな時たまたま、高崎の「ふそう」への配車があった。
「すみません。1週間ばかり休みますが」
「なんだよ、しょうがねえな。後はちゃんと出てこいよ」
この仕事、結構なお金になるので旅費と日当もらうとそのまま来なくなっちゃうやつが結構いたらしい。
千代田陸送株式会社。それは「三菱ふそう川崎工場」の中にあった。配車係の親父さんはべらんめい調で一日中怒っているご様子。あの頃は兎に角トラックが売れた時代で全国各地の販売店から矢の催促だったようだ。
僕も北海道、九州までは行かなかったが、北は青森、をはじめに東北六県、西は広島、松江、徳島の中国四国で、近場の関東地域は何故かあまり配車されなかった。
そんな時、高崎の倉賀野にある「ふそう」への配車があったので、車を届ける前に僕は高崎の隣町、「堀口三兄弟」のいる群馬町井出の「堀口機械」へと向かった。
団塊世代「青春の光と影」(渋谷ジャンジャン)
新井薬師
僕は、帝京大学に通う高校時代の友人「宮田」を頼って「聖蹟桜ヶ丘」の宮田の下宿にひとまず居候を決めた。しかし一週間もしないうちに結局、そいつの親父というのが下宿にやってきて息子の学業の邪魔になるから他所に行ってくれないか―――と。
しかし僕も、身勝手な話だとは思ったが無遠慮に僕の事情を話した。
「そうか、しかし、君には悪いが息子との同居止めてくれないか。その代わりと云ってはなんだが新井薬師の知り合いのアパートを世話するよ」。
「分かりました」
「悪いなぁ・・・・・」
宮田はは申し訳なさそうに僕に言ったが、別に僕はそんな事はどうでも良かった、それよりも早々に塒を落着けて「音楽修行」になんとしてでも道筋をつけたかった。
宮田の親父は元々軍医で防衛庁の病院に勤務をする傍ら「帝京大学」の医学部講師をしていた。
宮田も一八〇センチを有に超える大男だが、親父さんも「デカイ」。兄貴も姉さんも「デカイ」。巨人一族であった。何でもお祖父さんも「デカ」かったそうである。宮田家は群馬町の旧家で一家揃って一風変わっていて世俗的ではなかった。
僕は親父さんにその場で西武新宿線「新井薬師」のアパートの地図を書いてもらうと早速宮田の下宿を後にした。
西武新宿線の新井薬師のアパートはその年の春まで宮田の兄貴が暮らしていた。何でも宮田の兄貴、年は宮田、僕等より8つ上なのだが二浪して早稲田に入り、大学院で卒業したのが30歳くらいだったと宮田が云っていた。
「道具、みんな使っていいから。家賃だけ、7,500円払ってね」
と親父さんから言われていたので〈まあ、寝られればいいか〉くらいで、親父さんに書いてもらった地図と預かった鍵を手に道順を辿った。
アパートは新井薬師の駅から歩いて4、5分の所だった2階建てで階段を上ると廊下を挟んで部屋が3部屋づつ並ぶ。便所は共同、当時としては当り前で今のような「マンション」のマの字も無かった時代だった。道具とは云っても多少の食器とガスコンロに布団一式くらいだったがその時の僕には充分すぎるほどの設備だた。
部屋は薄暗い階段を上がって二回の奥まった「1K」。もちろん陽など当たるはずも無い、今にして思えば当時流行り、都会の「アパート暮らし」。それでも膨らんだ夢がそんな生活空間をも楽しませてくれた。
もちろん「音楽修行」とは云うものの別に当てがあるわけでもなかった。今のように「ライブハウス」とやらがそこいら中にあるわけでもなく、ましてやひとつの「ブーム」が去ったあとでそれまでの音楽シーンの盛り上がりは何処にも無かった。
結局、僕はつまるところアルバイトの明け暮れ。新宿南口に集合する「夜勤」のバイト。それは川崎の工業団地で夜食、朝食付きで2700円くらいだっただろうか、結構なバイトだった。
当時は、オイルショック真っ盛り、かと云って高度成長も頂点を極める時代で高田馬場公園、戸山公園辺りの「地下鉄工事人足」あたりも、夕方黒山に集まるもののあっという間にマイクロバスで闇に消えていった。地下鉄工事の徹夜はバイト料はいいけど「キツイ」。それに下手に怪我でもしたら「バンド」どころではなくなるので、新宿南口「清涼飲料」のビンの再生工場の検品のアルバイトで糊口を凌いだと云うわけである。そんなある日、そこで一緒にバイトをしていた「岩手」盛岡か「デザイナー修行に東京へ来たと云うやつが・・・・
「陸送のいいバイトがあるから一緒に面接に行かない」と誘ってきた。
陸送のアルバイト
やはり川崎である。「三菱ふそう」のトラックを全国各地の販売店に「陸送」する仕事。
「う~ん。俺、バンドの練習あるしな」
実はバンドの練習などはなかったのだが、そのつもりでの「東京生活」。なにも普通の生活をするために出てきたのではないのだし、ただ秋に「渋谷ジャンジャン」のオーディションを申し込んでるだけでそのための「練習」だけだが。
陸送のバイト、一切拘束なしで行ける日に出て行って配車を貰う。
バイトも決まって久しぶりに宮田と飯を食った。飯とは言っても僕のお気に入りの新井薬師駅の「やきそば」。これが美味いのなんのって、今でいえばB級グルメ五つ星(笑)。大盛りのそれを食い終わる頃宮田が言った・・・・・
「トラックって、大型だろ」
「いやっ、4トン半だって。大阪の寝屋川って云うとこが一番多いらしいけど、帰りの新幹線代と、日当込みで1万7千円だって云うよ」
なんでもその他、本州、道続きは何処へでも行くって云う。結局、面接に行って免許証を見せて連絡先は電話が無ければ駄目だと云うので高崎の実家に住所を移して。
その陸送のアルバイトで、青森、秋田、盛岡、仙台、郡山、山形、新潟、北陸から関西近畿、広島、島根間で行った。「オイルショックの」最中、高速道も「阪神」まで、その先の山陽道は未開通で、燃料を途中給油するにも「行列」のありさま。しかし帰りは飛行機…兎に角忙しくて忙しくて、戻れば直ぐに次の配車が待っている状態。稼ぎにはなったがこれでは「音楽修行」がと、悩んでいる所だった。
そんな時たまたま、高崎の「ふそう」への配車があった。
「すみません。1週間ばかり休みますが」
「なんだよ、しょうがねえな。後はちゃんと出てこいよ」
この仕事、結構なお金になるので旅費と日当もらうとそのまま来なくなっちゃうやつが結構いたらしい。
千代田陸送株式会社。それは「三菱ふそう川崎工場」の中にあった。配車係の親父さんはべらんめい調で一日中怒っているご様子。あの頃は兎に角トラックが売れた時代で全国各地の販売店から矢の催促だったようだ。
僕も北海道、九州までは行かなかったが、北は青森、をはじめに東北六県、西は広島、松江、徳島の中国四国で、近場の関東地域は何故かあまり配車されなかった。
そんな時、高崎の倉賀野にある「ふそう」への配車があったので、車を届ける前に僕は高崎の隣町、「堀口三兄弟」のいる群馬町井出の「堀口機械」へと向かった。
団塊世代「青春の光と影」(渋谷ジャンジャン)