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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2015年06月12日

【備忘録】アキバ通り魔事件と“25歳”???(2008年6月12日)

アキバ通り魔事件と“25歳”???

僕が25歳だったときはどんなだったろうか・・・・・・

たしか、挫折の淵から這い上がった頃じゃあなかっただろうか。

「挫折の淵」とはいっても元来が『万事塞翁が馬』の習い性の僕、たしかに“挫折”は感じていたものの、それほどの深刻さはなかった。
諦めがいいといえば、それはそうだがはっきりいって「粘りがない」というか「堪え性がない」というか、早い話「ちゃらんぽらん」の「極楽トンボ」。
そんな“25歳”、昭和49年の僕だった・・・・・・

ご多分にもれず、団塊の世代、その青春は「エレキに明けて、エレキに暮れていた」。
15歳でエレキにシビレテ、大の大人に混ざってダンスホールでエレキを弾いていた青春の門。
ご案内の“GSブーム”、18の時には引く手あまたの中、高崎でもピカイチのGSのドラマーとなり県内、近県のダンスホール荒し・・・・・
そう、まさしく「有頂天な時代」だった(笑)。
しかし、ブームはブームで21の時にバンドは解散、僕以外のメンバーは気質の職業についたが、つけ上がっていた僕は「プロ」になる夢をメラメラと燃やしていた・・・・・

そんなおりの高度経済成長期。ドラマーとしての仕事は高崎を中心にいくらでもあった。
それも、当時のサラリーマンの給与からすると破格の“ギャラ”が稼げた。
それが、昭和46、47年当時・・・・・・

そう、『浅間山荘事件』。キャバレーのバンドマンだった僕は仲間とその『浅間山荘』の事件の真っ只中を見に行った。
まあ、見に行ったとは言うものの、碓氷峠を越えると長野県警の物々しい警備で浅間山荘方面には行けず、中軽井沢駅まで行って帰ってくるだけだったのだが・・・・・・
思えばほぼ同世代が、「世界同時革命」とかで、赤軍メンバー岡本公三(当時25歳)がテルアビブのロッド空港で自動小銃乱射事件を起こしている。


<象徴“25歳”の連合赤軍指名手配ポスター>

まあ、政治には全く無関心の“ノンポリ”の僕だったが当時日本中を震撼させていた『連合赤軍』・・・・・・
その頃にはその『連合赤軍』、“内ゲバ”集団リンチ殺人事件は裁判の渦中にあり、前橋地方裁判所でその裁判を傍聴した憶えがある。

その頃、高崎のバンド仲間が一人二人と“プロ”を目指して東京へと旅立って行った。

『22歳の別れ』という歌があるが、ご多分にもれず“失恋”(挫折)である。
3年ほどつき合っていた彼女との別れ、それは“プロ”への夢に執着する僕に嫌気がさしてのもの・・・・・
半年ほど経った23の春に僕は高崎駅から上野行きの汽車に乗っていた「片道470円」。

今は埼京線となっているが当時はたしか“赤羽線”と言っていた・・・・・
その「上野行き」を赤羽で降りると連絡橋をわたり“赤羽線ホーム”の省線のお下がりか、
相当年季の入った油臭い電車に乗り換え新宿、西武新宿線で新井薬師の友達のアパートに転がり込んだ。

アルバイト探し・・・・・・
当時、“学生援護会”というのがあってそこがアルバイト情報誌を発行したり、学生の下宿、アパートの斡旋もしていて、
それが今の『an』の“アルバイトニュース”である。
ご案内のようにアメリカがベトナムに負けて、学生運動も連合赤軍の崩壊でほぼ収束し、時は高度経済成長の踊り場的時代・・・・・
東京の街は地下鉄工事、高速道路工事と昼夜喧騒を極めていた。

僕はそんなに体力には自信がなかったので川崎の工業地帯の日雇い、夜勤のバイトをするために“新宿南口”のその列に並んだ。
今でいう“フリーター”とでも言うのか、2、3台のマイクロバスがそんな僕らを満杯にすると川崎工業地帯に向かっていた。
夜食付で2000円くらいだっただろうか、楽器代と練習スタジオ代、アパートの家賃(7千円)を稼ぎ出すために、をその仕事を3ヶ月ほどつづけた。

あるとき報知新聞の記事の中に「渋谷ジャンジャン、ドラマー募集オーディション有」という小見出し、
僕は一も二もなく渋谷ジャンジャンに電話をして“オーディション”を受けることにした。
渋谷ジャンジャンと言えば、ニューミュージック系、当時は未だそんな言葉もなかったが、その“五輪真弓”や“山崎ハコ”大御所では“雪村いずみ”が定期ライブをやっていた本格的“小屋”だった。

なんと僕はそこのハウスバンドのドラマーのオーディションに合格!!

そう、僕の人生最大の“挫折”がそのオーディション合格がもたらすことになった。
つまり、オーディションに合格はしたものの・・・・・・

「あなた、使えないわねっ!!」

の一言で、僕は逃げるようにしてジャンジャンを飛び出していた。

世間のサクセスストーリーでは、ここからが本番。
歯を食いしばってそんな叱咤にも負けず猛練習、何度でも頭を下げて挑戦、
そしてようやく認められて「ハッピーエンド」となるはずなのだが・・・・・・

しかし、粘りのない、堪え性のないが習い性の僕「ヘタクソッ!!」には尻尾を巻いて逃げる以外になす術はなかった。

それが25歳の僕の現実だった。

まあ、「万事塞翁が馬」の僕。そのジャンジャンでひょんなことで知り合ったアメリカ人の友人と“ブルースバンド”を組むことにした。
それがめぐりめぐって今日まで、エレキで飯を食う齢、59歳の僕がいる・・・・・・

アキバ通り魔事件と“25歳”???

時代が違うと言ってしまえばそれまでだろうが・・・・・・
その意味では、連合赤軍の一般大衆を巻き込んだ凶行、破壊活動。
そして仲間同士が殺し合う、内ゲバ“リンチ殺人”。

それらのほとんどが“25歳”を舞台にした事件。

「米帝、日帝打倒!!世界平和を!!世界人民の解放を!!」

と言いながら、「戦闘」、「闘争」と称して多くの一般市民を犠牲にし、挙句は仲間同士が殺し合うといった狂気を演じた。

まあ今日、政治家、官僚、財界の腐敗はその時代のままが今(笑)。

その意味での“25歳の若者”が正気を取り戻すにはあとどれほど時間が必要なんだろうか・・・・・・

そしてその“25歳の若者”とは、この国そのものの姿、形ではないのだろうか。

となれば、日本国民、いつ何時この“25歳の若者”になるやも、またその“犠牲”になるやも知れない。

“25歳”とは言いつつ、未成熟な精神がその現実、親が負わねばならない責任は無限大に大きく重い・・・・・・
連合赤軍の親たちも隠れるようにして生涯を閉じ、途中、自殺した親も。


次世代をになう若い人たちに願いたい・・・・・

この国の未来、そして今日生まれた、今日生まれる、明日生まれる子どもたちのためにも・・・・・・

確かな道の選択をと。

アキバ通り魔事件と“25歳”???

  


Posted by 昭和24歳  at 13:57Comments(0)

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