2014年11月27日

前橋「エキータ」に見る限界

前橋「エキータ」に見る限界



都市集客施設「高崎パブリックセンター」


平成27年着工を目指す


高崎駅東口栄町地区で高崎市が進めてきた都市集客施設の建設計画が動き始めた。この都市集客施設は、高崎商工会議所の提言を盛り込んだ新高崎創造の拠点施設に位置づけられ、これからの高崎の都市づくりのカギを握っていると言っても過言ではない。

 高崎市は、4月下旬に都市集客施設基本計画を発表、また、5月初旬には群馬県も高崎競馬場跡地にコンベンション施設を建設する考えを示し、高崎駅東口エリアの開発計画をめぐる動きは急展開を見せた。これらの施設を有効に活用し高崎の都市力を上げるためのヒントを探ってみた。

<抜粋引用:高崎新聞>
http://www.takasakiweb.jp/toshisenryaku/article/2012/07/0701.html

まあ、その道のプロ「ヨーカドー」がやってダメなのに・・・・・

そら、無理です。

で、「けやきウォーク」にしたって、なんかイメージ暗いし、そもそも前橋って広すぎますね街が。

「前三」がダメで「西武」がダメで、まっ、地場の「スズラン」ですけど・・・・・

すずらんだって「高崎」が本籍、商売上手なんでしょうか、一人のこっちゃいましたね。

結局、上毛撚糸跡にできた「ダイエー」にしろ、グンゼ跡地の「サティ」にしろ、言ってみたら「郊外」です。中途半端な。

で、中心市街地は高崎の数倍もあるんじゃあないでしょうか、面積が。

西は「弁天通」と「国道17号」挟んだ街中から東は「赤城県道」まで、とにかくさすが「県庁所在地だね」とそんな趣の前橋だったけど。

で、その昔は「上電」の中央駅付近も賑やかったように記憶しています。それに「千代田町」も・・・・・

そうそう、その頃は「メンズショップ」華やかりし時代でした。それからしばらくしてですね、「ビギ」とか「メルローズ」とか。

で、それも前橋が最初だったんじゃあないかと、で、直に高崎の砂賀町でしょうか、今のレンガ通りに女子専「ブティック」が。

たしかあれは昭和50年の秋でした。僕が25歳の時です。そんな時代の流れに目をつけた某、関東最大のゴルフショップオーナー・・・・・
その某ゴルフショップ、当時はまだ某所でゴルフ練習場を経営していただけでしたから40年前です。
そのオーナー氏、寅年とか言ってましたから当時は35歳、詳細は省きますけど、氏は連雀町四角からスズラン方面へ数軒のところで1階がたしかランジェリーショップで、2階がパーラー、それも経営してました。

そんな時、たまたま僕が仕事でお世話になっていた某氏のご案内でした、その関東最大のゴルフショップ、オーナー氏の当ショップで「山本寛斎」をフランチャイズでという話が飛び込んできて・・・・・
まあ、僕も若かったし東京で仕事をしてたもんですから渡りに船で「山本寛斎」のファッションショーへそのオーナー氏に同行。
まっ、当時は「山本寛斎」と言ったらファッションデザイナー界の寵児でしたからはっきり言って高崎くんだりからからのお話には全く取り合うことなく終わっちゃいました。
しかし、そのオーナー氏の怒りは相当なものでしたて・・・・・・

「山本寛斎、それがどうしたって言うんだ!!」

てな感じで、取り付く島なし。で、そのフランチャイズをコーディネイトしていた某氏に噛み付いて、その「山本寛斎」マネージャーという人が飛んできて詫びてましたっけ(笑)。
で、その後、そのコーディネイター氏、「コシノジュンコ」の話を持ってきたりしたけど、関東最大のゴルフショップオーナー氏、すっかり「ファッションビジネス」は覚めてしまっていたのでそれっきりでした。
で、それから直ぐでしたね、高崎でも「ブティック・ブーム」。その意味では高崎の街中、百花繚乱の時代でした。

まあ、喫茶店にしても、慈光通りの「いわと」は連日満員、駅前の「ブリッジ」も。そうそう、スカイビルの回転レストラン「スカイラウンジ」も連日超満員でした。
もちろん「ナポリ」も「あすなろ」も健在で、そんな頃です柳川町界隈にもキャバレーが5店舗くらいありましたね、「ニュー東京」「ニュージャパン」「フロリダ」「サクラメント」「貴族院」とか。
で、柳通りの料亭「宇喜代」も隆盛を極めていて、九蔵町の「魚仲」、椿町の「暢神荘」が高崎重鎮の夜の会議室で、芸者さんの往来も花街を飾っていました。
そしてクラブやバーは何軒あったでしょうか、その中でも最高峰だった「クラブ銀座」。通称「バー銀」です。僕らも安堵のお仕事でお世話になりましたけど、当時で一日の売り上げが数十万円でしたから、今日の、そこ、その趣は「荒城の月」です。

もちろん、前橋はもっと凄かったようですね。キャバレーにしてもクラブ、バーにしても。
その頃です。「前三」が「三越」と提携したのが昭和54年、「前橋西武」が昭和53年、「ダイエー」が昭和54年、「ニチイ」は昭和47年でしたし。
そして「イトーヨーカ堂」が昭和62年ですか・・・・・
で、夜の街も高崎よりは品がよくて。まっ、県庁所在地だし、国の機関もあるわけですから官官接待とか盛んだったとか。
とにかく高崎なんかよりはよっぽどハイソな趣でした、昭和の「前橋」。
で、アーケード街の「弁天通」だって、高崎の中銀と比べたら、そりゃあ大違いで、僕ら20代の頃は前橋へ買い物に行きましたし。

いずれにしても「団塊世代」の「核家族化」で地方都市の「ドーナツ化現象」は避けられない現実だった。

で、時代は平面大駐車場を備えた郊外型の「スーパー」とか「アピタ」等に見る「モール型ショッピングセンター」の出現で、街中はますます寂れていった。

まあ、「大店法」とかが有効だった時代の終わりが「街中」を破壊しました。
当然、国の法律ですから地方自治体行政でどうにかなるという話ではないんでしょうけど、中小零細商店の政治力、つまり「声」はかき消されちゃいました。
もちろん、そのために行政を監視監督する「地方政治」があるわけですけど、どういうわけかその「政治」が生きていない。

現在のこの高崎市においても「高崎市」を一つの国に例えるならまさに「駅前一極集中」です。
高崎駅を中心とした半径500メートル圏にこれから全てが集中される。
その象徴は「BICカメラ」を中心とした大規模集客施設「高崎パブリックセンター」建設だろう。
つまり、音楽センターもいらないといっているくらいだから、旧市街地への導線は完全に消滅する。
おそらく、公共施設も整備されるんだろうから、街中へ出る必要は全くなくなる・・・・・

まあ、時代に取り残された世代というよりは、そこから消えてゆく世代にはもう用はないのかもしれない。

とはいえ、この先、今の若者にも必ずそういう時代がやってくることはわかりきっているはずなんだが(笑)。

前橋「エキータ」に見る限界


  


Posted by 昭和24歳  at 11:58Comments(0)

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