2014年01月30日
昭和45年“ジョーという経大生”(加筆して再掲)
昭和45年
“ジョーという経大生”
(加筆して再掲)
昭和45年。高経の“タクロー”と歌う昭和24歳。
今日、偶然だが飯塚のヤオコーで旧知のH氏にばったり・・・・・
「ああ、この間、大阪でジョーに会いました。
で、NABEさんの話も出てこのところ音信不通とかで、どうしているんだろうか、
と言ってました」
まあ、かれこれ、40年が過ぎた住む世界こそ違うが旧友・・・・・
しこたま酒を飲んで、語り合った、そんな仲間の「ジョー」。
徳島県阿南市出身の“ジョーという経大生”
ひょんなことがきっかけで僕の店に来るようになった・・・・・・
「朝鮮飯店、火事になっちゃってバイトパーになっちゃったけんね、僕おカネないんですわ」
徳島県とういうと関西訛りなのか、しかし関西弁ほどのあの「ジトッ」としたねっとり感はない。
どういうわけかウマがあったというか、聞けば同い年。
高経には一浪しての入学、なんでも阪大を受けて落っこちて、たまたま高経の試験会場がソコにあったからだと・・・・・・
で、徳島から高崎くんだりまで、下ったわけである。高経ではラグビー部と民研サークルに属していた。
その“ジョーという経大生”実は僕の先輩というか近所のガキ大将だった有間さんのラグビー部の後輩で、
いつだったか一度僕のコンサートにその有間さんと連れ立ってきていた。
「歌、上手やねぇ」
少し酒がまわったのか、そんなお世辞が“ジョーという経大生”の口からこぼれた・・・・・・
「今度一緒に歌わないか ? 」
「えぇ、僕、歌下手やし、ギターも弾けんし・・・・・・」
ソレでもあの時代のことである、ちょうど和製フォークブームの兆しで、森山良子や本田路津子の歌がヒットしていた。
そういえば、よくリクエストのあったのが森山良子が歌っていた「思い出のグリーングラス」。
この中に“ジョーという経大生”がいる・・・・・・
実は、“ジョーという経大生”も並榎の矢島荘という下宿にモーリスのフォークギターが置物としてあった。
たしかに下手クソだった。っていうか「音痴」で、それは「不治の病」であった。
そんなこんなで“ジョーという経大生”はちょくちょく店に顔を出すようになった。
あれは店ででしこたま飲んだくれた後、車を飛ばして安中の丸善ドライブインへ行ったときのことだった・・・・・・
“ジョーという経大生”、何度目かのそこだったがいたくソコにあるジュークボックスがお気に入りで夢中になっていた。
「阿南にはこんなのないけんね。高崎って都会やねぇ」
まあ、ソコは高崎じゃアなくて安中なんだけど、とにかく阿南は今でこそ臨海工業地帯だが、
“ジョーという経大生”が子どもの頃はさびれた漁師町だったとか、で、“ジョーという経大生”が阿南を後にするころには、
町にもコンビナートができたりで、“ジョーという経大生”の実家はその時分から民宿というか旅籠を営んでいたとか。
まあ、阿波踊り見物がてらと、その“ジョーという経大生”の結婚式の、二度阿南を訪ねたが・・・・・・・
そりゃあなんにもないところでした。
いや、実は三度あった。エレキの行商で徳島へ行ったとき一度その民宿に泊めてもらった。
“ジョーという経大生”の好きな曲はPPMとかブラザースフォアとか、キングストントリオとかで、
あの時代のジュークボックスって一曲いくらだったんだろうか ?
「10円 ? 」。そんなことはないか、たしか百円で2曲とか3曲だったように記憶するが・・・・・・・
まあ、親の仕送りはその日のうちに「酒代」に消えちゃうような無類の酒好きだった“ジョーという経大生”。
その丸善ドライブインで呑むのは一杯60円の「ジンスト」。あの臭いお酒だ。
まあ、その“ジョーという経大生”の趣味で僕もその頃飲むといえば「ジンスト」だった。
因みに、あの時代「酒気帯び運転違反」とかいう道路交通法は存在しなかった。もっともそのすぐ後に施行されたのだが、
その後施行された「酒気帯び運転取り締まり」で、僕の輝かしき運転免許、自動二輪&大型免許は取り消された。
で、“ジョーという経大生”とソコでの数時間を過ごすと空はしらじんでくる。
「僕のとこ泊って行く、汚いけど」
まあ、そんなこんなでそれから何度も“ジョーという経大生”の下宿でお世話になるのだが・・・・・・
その汚いこと、臭いこと。何せラグビー部である。「汗と泥」まみれが勲章のような生態。
オマケに、一升瓶はゴロゴロ、当然枕は一升瓶で、布団なんかはありゃあしません。
“ジョーという経大生”の日常というか、それは新聞紙にくるまって寝ているのであった。
「今度、シャンゴでバイトするけんね。食べに来て」
なんでも4年生の先輩がそのシャンゴでバイトをしていてその引き継ぎとかでお鉢が回ってきたとか・・・・・・・
まあ、僕の「バージン・シャンゴ」はその時。
実は、そこでその、“ジョーという経大生”はそのシャンゴをすぐクビになって、その後釜に畠というやつが座るのだが、
まあ、なぜクビになったかっていうと、新聞紙にくるまって寝ているくらいだから、ほとんど風呂には入らず、
まあ、着るものも普段は汗まみれの薄汚れたジャージで、まあ、シャンゴ、レストランですから白いワイシャツに・・・・・・
ということなんだが、なんでもそのワイシャツも先輩のお下がりで洗濯はしないから白いワイシャツじゃあなくて、黄ばんで、
まあ、見るからに不衛生、不潔だということで「クビ」っていうわけ(笑)。
で、その後が朝鮮飯店で、本町にあったやつ、“ジョーという経大生”がアルバイトし始めてすぐに火事に。
しかし、“ジョーという経大生”、そんな不運にもめげす生来がおっとりしているっていうか急がずあわてずの趣。
で、まあ、そんな“ジョーという経大生”もいよいよ就職。結局大学生活はラグビー部で、それも・・・・・・
「青春とはなんだ !! 」式の、学園モノの教師に憧れたけど不覚、教職は取れず留年スレスレの追試。
それでも、当時、今でもそうだろうけど「神戸製鋼」、じゃあなくてその子会社「神戸製鋼棒」とかいう、たしか宝塚にあった、
上場企業の総務課に就職が決まった。
その頃のことだ、ドサ周りで大阪方面に行くと必ず「梅田」で待ち合わせて、難波で呑んだくれた。
最終の阪神で寮まで帰るのだが、たどりつく頃には夜明け・・・・・・
「寝てていいけんね」
そういい残して、酒の匂いをぷんぷんさせて“ジョーという元経大生”は会社へと駆け出す。もっともそこから数分。
何度目かの梅田での待ち合わせ・・・・・・・
なんと、隣に年のころなら25、6のカワイ子ちゃんがいるではないか。
「結婚するんだ。総務課の先輩・・・・・」
未だ就職して1年と半だというのに。聞けばその総務課のお先輩とかの女性は総務課ですぐ隣・・・・・・
で、金の草鞋っていうか3歳年上だとか、「27歳」、もうすぐ28だとか。
「結婚式、阿南でするけん、必ず来てなぁ」
その晩はその総務課の先輩の那智子さんと、もちろん先輩の那智子さんのおごりで食い倒れ・・・・・・・・
いや、呑み倒れであったことは言うまでもない。
那智子さんの話も面白い。島根は安来のご出身とか。
結婚披露宴は“ジョーという元経大生”のご実家、阿南のその民宿の近くの料亭(?)の二階で華々しく執り行われた。
もちろん、那智子さんのご実家の御親戚のみなさんの「安来節」が披露されその喝采ときたらなかった。
ウマイ具合に和歌山にドサ周りの仕事があって和歌山南港から渦潮を超えて徳島へ・・・・・・・
徳島からはバスに揺られること4、50分の阿南だった。帰路はその翌日東京でのチープな仕事があったため、
徳島空港から「YS-11」で、まあ、アレって鳥になった気分とでもいうんでしょうか、揺れます、鳴きます、震えます。
それが昭和47年・・・・・
「転勤しました」と、その転勤先、千葉県柏市を終の棲家とした“ジョーという元経大生”からの便りがあった。
やっぱり下手くそな字・・・・・・
それから数年、音信という音信もなく、関西、大阪で暮らすという風の便りが。
そうだ、“ジョーという経大生”は歌も下手くそだったけど、字を書かせると小学生にも負ける。
でもそんな、昔のままの“ジョーという元経大生”のその認めに目頭が熱くなった。
昭和45年
“ジョーという経大生”
(加筆して再掲)
“ジョーという経大生”
(加筆して再掲)
昭和45年。高経の“タクロー”と歌う昭和24歳。
今日、偶然だが飯塚のヤオコーで旧知のH氏にばったり・・・・・
「ああ、この間、大阪でジョーに会いました。
で、NABEさんの話も出てこのところ音信不通とかで、どうしているんだろうか、
と言ってました」
まあ、かれこれ、40年が過ぎた住む世界こそ違うが旧友・・・・・
しこたま酒を飲んで、語り合った、そんな仲間の「ジョー」。
徳島県阿南市出身の“ジョーという経大生”
ひょんなことがきっかけで僕の店に来るようになった・・・・・・
「朝鮮飯店、火事になっちゃってバイトパーになっちゃったけんね、僕おカネないんですわ」
徳島県とういうと関西訛りなのか、しかし関西弁ほどのあの「ジトッ」としたねっとり感はない。
どういうわけかウマがあったというか、聞けば同い年。
高経には一浪しての入学、なんでも阪大を受けて落っこちて、たまたま高経の試験会場がソコにあったからだと・・・・・・
で、徳島から高崎くんだりまで、下ったわけである。高経ではラグビー部と民研サークルに属していた。
その“ジョーという経大生”実は僕の先輩というか近所のガキ大将だった有間さんのラグビー部の後輩で、
いつだったか一度僕のコンサートにその有間さんと連れ立ってきていた。
「歌、上手やねぇ」
少し酒がまわったのか、そんなお世辞が“ジョーという経大生”の口からこぼれた・・・・・・
「今度一緒に歌わないか ? 」
「えぇ、僕、歌下手やし、ギターも弾けんし・・・・・・」
ソレでもあの時代のことである、ちょうど和製フォークブームの兆しで、森山良子や本田路津子の歌がヒットしていた。
そういえば、よくリクエストのあったのが森山良子が歌っていた「思い出のグリーングラス」。
この中に“ジョーという経大生”がいる・・・・・・
実は、“ジョーという経大生”も並榎の矢島荘という下宿にモーリスのフォークギターが置物としてあった。
たしかに下手クソだった。っていうか「音痴」で、それは「不治の病」であった。
そんなこんなで“ジョーという経大生”はちょくちょく店に顔を出すようになった。
あれは店ででしこたま飲んだくれた後、車を飛ばして安中の丸善ドライブインへ行ったときのことだった・・・・・・
“ジョーという経大生”、何度目かのそこだったがいたくソコにあるジュークボックスがお気に入りで夢中になっていた。
「阿南にはこんなのないけんね。高崎って都会やねぇ」
まあ、ソコは高崎じゃアなくて安中なんだけど、とにかく阿南は今でこそ臨海工業地帯だが、
“ジョーという経大生”が子どもの頃はさびれた漁師町だったとか、で、“ジョーという経大生”が阿南を後にするころには、
町にもコンビナートができたりで、“ジョーという経大生”の実家はその時分から民宿というか旅籠を営んでいたとか。
まあ、阿波踊り見物がてらと、その“ジョーという経大生”の結婚式の、二度阿南を訪ねたが・・・・・・・
そりゃあなんにもないところでした。
いや、実は三度あった。エレキの行商で徳島へ行ったとき一度その民宿に泊めてもらった。
“ジョーという経大生”の好きな曲はPPMとかブラザースフォアとか、キングストントリオとかで、
あの時代のジュークボックスって一曲いくらだったんだろうか ?
「10円 ? 」。そんなことはないか、たしか百円で2曲とか3曲だったように記憶するが・・・・・・・
まあ、親の仕送りはその日のうちに「酒代」に消えちゃうような無類の酒好きだった“ジョーという経大生”。
その丸善ドライブインで呑むのは一杯60円の「ジンスト」。あの臭いお酒だ。
まあ、その“ジョーという経大生”の趣味で僕もその頃飲むといえば「ジンスト」だった。
因みに、あの時代「酒気帯び運転違反」とかいう道路交通法は存在しなかった。もっともそのすぐ後に施行されたのだが、
その後施行された「酒気帯び運転取り締まり」で、僕の輝かしき運転免許、自動二輪&大型免許は取り消された。
で、“ジョーという経大生”とソコでの数時間を過ごすと空はしらじんでくる。
「僕のとこ泊って行く、汚いけど」
まあ、そんなこんなでそれから何度も“ジョーという経大生”の下宿でお世話になるのだが・・・・・・
その汚いこと、臭いこと。何せラグビー部である。「汗と泥」まみれが勲章のような生態。
オマケに、一升瓶はゴロゴロ、当然枕は一升瓶で、布団なんかはありゃあしません。
“ジョーという経大生”の日常というか、それは新聞紙にくるまって寝ているのであった。
「今度、シャンゴでバイトするけんね。食べに来て」
なんでも4年生の先輩がそのシャンゴでバイトをしていてその引き継ぎとかでお鉢が回ってきたとか・・・・・・・
まあ、僕の「バージン・シャンゴ」はその時。
実は、そこでその、“ジョーという経大生”はそのシャンゴをすぐクビになって、その後釜に畠というやつが座るのだが、
まあ、なぜクビになったかっていうと、新聞紙にくるまって寝ているくらいだから、ほとんど風呂には入らず、
まあ、着るものも普段は汗まみれの薄汚れたジャージで、まあ、シャンゴ、レストランですから白いワイシャツに・・・・・・
ということなんだが、なんでもそのワイシャツも先輩のお下がりで洗濯はしないから白いワイシャツじゃあなくて、黄ばんで、
まあ、見るからに不衛生、不潔だということで「クビ」っていうわけ(笑)。
で、その後が朝鮮飯店で、本町にあったやつ、“ジョーという経大生”がアルバイトし始めてすぐに火事に。
しかし、“ジョーという経大生”、そんな不運にもめげす生来がおっとりしているっていうか急がずあわてずの趣。
で、まあ、そんな“ジョーという経大生”もいよいよ就職。結局大学生活はラグビー部で、それも・・・・・・
「青春とはなんだ !! 」式の、学園モノの教師に憧れたけど不覚、教職は取れず留年スレスレの追試。
それでも、当時、今でもそうだろうけど「神戸製鋼」、じゃあなくてその子会社「神戸製鋼棒」とかいう、たしか宝塚にあった、
上場企業の総務課に就職が決まった。
その頃のことだ、ドサ周りで大阪方面に行くと必ず「梅田」で待ち合わせて、難波で呑んだくれた。
最終の阪神で寮まで帰るのだが、たどりつく頃には夜明け・・・・・・
「寝てていいけんね」
そういい残して、酒の匂いをぷんぷんさせて“ジョーという元経大生”は会社へと駆け出す。もっともそこから数分。
何度目かの梅田での待ち合わせ・・・・・・・
なんと、隣に年のころなら25、6のカワイ子ちゃんがいるではないか。
「結婚するんだ。総務課の先輩・・・・・」
未だ就職して1年と半だというのに。聞けばその総務課のお先輩とかの女性は総務課ですぐ隣・・・・・・
で、金の草鞋っていうか3歳年上だとか、「27歳」、もうすぐ28だとか。
「結婚式、阿南でするけん、必ず来てなぁ」
その晩はその総務課の先輩の那智子さんと、もちろん先輩の那智子さんのおごりで食い倒れ・・・・・・・・
いや、呑み倒れであったことは言うまでもない。
那智子さんの話も面白い。島根は安来のご出身とか。
結婚披露宴は“ジョーという元経大生”のご実家、阿南のその民宿の近くの料亭(?)の二階で華々しく執り行われた。
もちろん、那智子さんのご実家の御親戚のみなさんの「安来節」が披露されその喝采ときたらなかった。
ウマイ具合に和歌山にドサ周りの仕事があって和歌山南港から渦潮を超えて徳島へ・・・・・・・
徳島からはバスに揺られること4、50分の阿南だった。帰路はその翌日東京でのチープな仕事があったため、
徳島空港から「YS-11」で、まあ、アレって鳥になった気分とでもいうんでしょうか、揺れます、鳴きます、震えます。
それが昭和47年・・・・・
「転勤しました」と、その転勤先、千葉県柏市を終の棲家とした“ジョーという元経大生”からの便りがあった。
やっぱり下手くそな字・・・・・・
それから数年、音信という音信もなく、関西、大阪で暮らすという風の便りが。
そうだ、“ジョーという経大生”は歌も下手くそだったけど、字を書かせると小学生にも負ける。
でもそんな、昔のままの“ジョーという元経大生”のその認めに目頭が熱くなった。
昭和45年
“ジョーという経大生”
(加筆して再掲)
タグ :PPM高経、フォーク、徳島、大阪