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お問い合わせは、 info@gunmawen.net本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。2013年12月05日
日本人が知らない世界と世界が知らない日本。
日本人が知らない世界と世界が知らない日本。
与党、参院委で採決強行 秘密法、今夜成立へ調整 野党「横暴」と批判
機密漏えいに厳罰を科す特定秘密保護法案は5日午後の参院国家安全保障特別委員会で、自民、公明両党の賛成多数により可決された。自民党が採決を求める緊急動議を提出し、与党が採決を強行した。与党は参院本会議に緊急上程する方針で、5日中の成立を目指す。民主党など野党は「横暴だ」と訴え、森雅子内閣府特命担当相らの問責決議案を提出して対抗する構えで、本会議採決が6日未明にずれ込む可能性もある。
官僚機構による「情報隠し」や国民の「知る権利」侵害が懸念される法案をめぐる与野党攻防は緊迫度を増した。安倍政権は6日の国会会期末までの成立を確実にするため、強行策に突き進んだ格好だ。
<抜粋引用:産経ニュース 2013.12.5 17:52 [国会]>
ソース:http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131205/plc13120517550014-n1.htm
>官僚機構による「情報隠し」や国民の「知る権利」侵害が懸念される法案をめぐる与野党攻防は緊迫度を増した。
まあ、官僚機構の「パシリ」が政府自民党ですし、今更です(笑)。
で、その「官僚機構」って、オキュパイド・ジャパンですから、何を今更・・・・・
つまり、その「政府」にとって、よほど知られちゃあマズイことが、
現在進行形ってぇことです。
「何が?」って、そんなこと自分の頭で考えてください(笑)。
まあ、こういうことです、コレ↓
日本人が知らない世界と世界が知らない日本。
北欧の、実に民度の高い、教育水準の高い“フィンランド”で高校生が銃乱射。
というのが数年前にあった。
知らなかった・・・・・
フィンランドでは15歳以上になると「銃の所持」が認められる。警察への届出制とか。
その“短銃乱射”の高校生は、ちゃんと警察に届出をして“拳銃”を購入していたとか。
そして先日、長崎県佐世保で「散弾銃乱射事件」が・・・・・
この日本では“猟友会”なる組織、あるいはオリンピック競技にもある“クレー射撃”等の組織での「銃火器」の所持が、
所轄の警察への届出、許可で許されていると言う。
米国ではよくニュースとなる「銃乱射事件」。
12月5日、米国中西部のとある町のショッピングモールで若い男が「ライフル乱射、8人死亡」。
ふと思った・・・・・
それも「民主主義の一つの形」ではないのかと。
アメリカしか知らないがそれもLAの、小さな町の雑貨屋のような所で拳銃からライフル、
それも結構大きい物までが平然と売られている。
もちろんショッピングモールにも「銃専門コーナー」がありそこでも大量の銃が。
僕など最初は「モデルガンショップ」かと、見間違うほどのそれは気軽さで売られている。
何度かそんな「銃専門店」に行く友人に付き合った・・・・・
そしてどこの町にも「射撃練習場」があるという。「マイ拳銃」で練習をすると言うのだ。
なんどかそんな「射撃練習場」に行く友達に付き合いその“拳銃”を撃った。
息子娘を連れての「射撃練習」をする親子、しかも少年少女・・・・・・
これもひとつの「民主主義」の“形”なのかなぁと思ったりした。
国家が民衆に「銃火器」の所有を容認する。
あの永世中立国家“スイス”、米国のそれとは違うが、
人口746万人、徴兵制、民間防衛として「105万人」、ほぼ全戸の民家に国家防衛としての“銃火器装備”がされている。
国家自らが法律でそれを“権利”として保障する・・・・・
たしかに、「全国(米)ライフル協会」の存在とその業界、政界と言う関係はあるにしろ、
その国家にとって、もっとも危険なことは「大衆の銃(武力)装備」ではないのか。
例えがいいかどうかは分からないが、この日本の「刀狩令」。
その戦国時代は農民も戦には「兵士」としてかり出されたため、農民も常にいわゆる“武器”を所持していた。
全国統一に向け平定のためにそうした民衆の武装解除令・・・・・
結局、突き詰める所、そこに言う「民主主義」とは“民”にも武装を許す国家体制。
もちろん、その前提として「警察・軍隊」といった“国家側”の安全装置はあるが、時あらばそんな「民衆」が“武装蜂起”しないとも限らない。
なにも、銃火器の、密造、密輸、窃盗などの犯罪を犯さなくとも、法律に則って「銃火器」の“武装”ができる。
一見、屁理屈のように聞こえるが、“全米ライフル協会”のスローガン・・・・・・
「人を殺すのは人であって銃ではない」
は、正鵠かも知れない。
はたして、そんな「アメリカ的民主主義」がこの国に生きるのか(笑)。
その意味での東欧の民主化も、ソ連邦の崩壊も、それはけして平和的なものなんかではなく、
国家に抑圧され続けた末の叛乱、暴動、「民衆の武装蜂起」。そしてついには警察も、軍隊も「民主」になった瞬間・・・・・・
それが、反政府叛乱、動乱、騒乱ではなく「正義」になる。
日本は「銃社会」ではないが、このところの世相では「刃物社会」を呈している。
通り魔的殺人、隣人殺人、尊属殺人、ほとんどがその凶器は「刃物」。
武力としての“刃物”、刀剣はその所持に所轄の警察署への届出、許可申請が必要だが、
昨今のその“刃物”はどこの家庭にもある道具で、つい先日、ここ高崎でもその道具“鉈”(ナタ)での夫婦間殺傷事件があった。
かの敗戦時も「時の政府」がもっとも恐れたのは武装解除される「兵士の叛乱」ではなかったか。
しかし、その兵士も元を正せば「民衆」で、ほとんどが農民であったり、サラリーマンであったり、学生でしかなかった・・・・・
いかに、かの大戦でのこの“国家”が狂気の沙汰で多くの家族、同朋を死地に至らしめたことを知りつつも、
民衆、平民はそこにいう「革命」の勇気はなかった。あの、死んだも同然の社会状況の中にでさえ。
残念だが、そんな中での僕らの言う「民主主義」とは、この国のそれはただの「うわごと」なのかも知れない。
だいいち、国家が“民主主義”などと言うはずがないからだ・・・・・・
年金問題、薬害肝炎問題、公共事業等々の今日の政治状況でも国家、「政府と国民」いつも対立しているではないか。
そんな「民主主義」、武装、暴力で勝取る勇気がなければせめて“紙爆弾”投票で政権転覆させるしかあるまい。
そもそも「権利」なんて求めるものではなく「奪い取る」ものなのではないのか。
その勇気さえ失せているのなら・・・・・・
鼻クソでもほじくって惰眠に過ごすしかあるまい。
日本人が知らない世界と世界が知らない日本。
与党、参院委で採決強行 秘密法、今夜成立へ調整 野党「横暴」と批判
機密漏えいに厳罰を科す特定秘密保護法案は5日午後の参院国家安全保障特別委員会で、自民、公明両党の賛成多数により可決された。自民党が採決を求める緊急動議を提出し、与党が採決を強行した。与党は参院本会議に緊急上程する方針で、5日中の成立を目指す。民主党など野党は「横暴だ」と訴え、森雅子内閣府特命担当相らの問責決議案を提出して対抗する構えで、本会議採決が6日未明にずれ込む可能性もある。
官僚機構による「情報隠し」や国民の「知る権利」侵害が懸念される法案をめぐる与野党攻防は緊迫度を増した。安倍政権は6日の国会会期末までの成立を確実にするため、強行策に突き進んだ格好だ。
<抜粋引用:産経ニュース 2013.12.5 17:52 [国会]>
ソース:http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131205/plc13120517550014-n1.htm
>官僚機構による「情報隠し」や国民の「知る権利」侵害が懸念される法案をめぐる与野党攻防は緊迫度を増した。
まあ、官僚機構の「パシリ」が政府自民党ですし、今更です(笑)。
で、その「官僚機構」って、オキュパイド・ジャパンですから、何を今更・・・・・
つまり、その「政府」にとって、よほど知られちゃあマズイことが、
現在進行形ってぇことです。
「何が?」って、そんなこと自分の頭で考えてください(笑)。
まあ、こういうことです、コレ↓
日本人が知らない世界と世界が知らない日本。
北欧の、実に民度の高い、教育水準の高い“フィンランド”で高校生が銃乱射。
というのが数年前にあった。
知らなかった・・・・・
フィンランドでは15歳以上になると「銃の所持」が認められる。警察への届出制とか。
その“短銃乱射”の高校生は、ちゃんと警察に届出をして“拳銃”を購入していたとか。
そして先日、長崎県佐世保で「散弾銃乱射事件」が・・・・・
この日本では“猟友会”なる組織、あるいはオリンピック競技にもある“クレー射撃”等の組織での「銃火器」の所持が、
所轄の警察への届出、許可で許されていると言う。
米国ではよくニュースとなる「銃乱射事件」。
12月5日、米国中西部のとある町のショッピングモールで若い男が「ライフル乱射、8人死亡」。
ふと思った・・・・・
それも「民主主義の一つの形」ではないのかと。
アメリカしか知らないがそれもLAの、小さな町の雑貨屋のような所で拳銃からライフル、
それも結構大きい物までが平然と売られている。
もちろんショッピングモールにも「銃専門コーナー」がありそこでも大量の銃が。
僕など最初は「モデルガンショップ」かと、見間違うほどのそれは気軽さで売られている。
何度かそんな「銃専門店」に行く友人に付き合った・・・・・
そしてどこの町にも「射撃練習場」があるという。「マイ拳銃」で練習をすると言うのだ。
なんどかそんな「射撃練習場」に行く友達に付き合いその“拳銃”を撃った。
息子娘を連れての「射撃練習」をする親子、しかも少年少女・・・・・・
これもひとつの「民主主義」の“形”なのかなぁと思ったりした。
国家が民衆に「銃火器」の所有を容認する。
あの永世中立国家“スイス”、米国のそれとは違うが、
人口746万人、徴兵制、民間防衛として「105万人」、ほぼ全戸の民家に国家防衛としての“銃火器装備”がされている。
国家自らが法律でそれを“権利”として保障する・・・・・
たしかに、「全国(米)ライフル協会」の存在とその業界、政界と言う関係はあるにしろ、
その国家にとって、もっとも危険なことは「大衆の銃(武力)装備」ではないのか。
例えがいいかどうかは分からないが、この日本の「刀狩令」。
その戦国時代は農民も戦には「兵士」としてかり出されたため、農民も常にいわゆる“武器”を所持していた。
全国統一に向け平定のためにそうした民衆の武装解除令・・・・・
結局、突き詰める所、そこに言う「民主主義」とは“民”にも武装を許す国家体制。
もちろん、その前提として「警察・軍隊」といった“国家側”の安全装置はあるが、時あらばそんな「民衆」が“武装蜂起”しないとも限らない。
なにも、銃火器の、密造、密輸、窃盗などの犯罪を犯さなくとも、法律に則って「銃火器」の“武装”ができる。
一見、屁理屈のように聞こえるが、“全米ライフル協会”のスローガン・・・・・・
「人を殺すのは人であって銃ではない」
は、正鵠かも知れない。
はたして、そんな「アメリカ的民主主義」がこの国に生きるのか(笑)。
その意味での東欧の民主化も、ソ連邦の崩壊も、それはけして平和的なものなんかではなく、
国家に抑圧され続けた末の叛乱、暴動、「民衆の武装蜂起」。そしてついには警察も、軍隊も「民主」になった瞬間・・・・・・
それが、反政府叛乱、動乱、騒乱ではなく「正義」になる。
日本は「銃社会」ではないが、このところの世相では「刃物社会」を呈している。
通り魔的殺人、隣人殺人、尊属殺人、ほとんどがその凶器は「刃物」。
武力としての“刃物”、刀剣はその所持に所轄の警察署への届出、許可申請が必要だが、
昨今のその“刃物”はどこの家庭にもある道具で、つい先日、ここ高崎でもその道具“鉈”(ナタ)での夫婦間殺傷事件があった。
かの敗戦時も「時の政府」がもっとも恐れたのは武装解除される「兵士の叛乱」ではなかったか。
しかし、その兵士も元を正せば「民衆」で、ほとんどが農民であったり、サラリーマンであったり、学生でしかなかった・・・・・
いかに、かの大戦でのこの“国家”が狂気の沙汰で多くの家族、同朋を死地に至らしめたことを知りつつも、
民衆、平民はそこにいう「革命」の勇気はなかった。あの、死んだも同然の社会状況の中にでさえ。
残念だが、そんな中での僕らの言う「民主主義」とは、この国のそれはただの「うわごと」なのかも知れない。
だいいち、国家が“民主主義”などと言うはずがないからだ・・・・・・
年金問題、薬害肝炎問題、公共事業等々の今日の政治状況でも国家、「政府と国民」いつも対立しているではないか。
そんな「民主主義」、武装、暴力で勝取る勇気がなければせめて“紙爆弾”投票で政権転覆させるしかあるまい。
そもそも「権利」なんて求めるものではなく「奪い取る」ものなのではないのか。
その勇気さえ失せているのなら・・・・・・
鼻クソでもほじくって惰眠に過ごすしかあるまい。
日本人が知らない世界と世界が知らない日本。
2013年12月05日
人
人は齢重ねる度に心が滲む。
さもしい心のままはそのまま滲んで見える。
それは喜怒哀楽の内面に似てそのままに滲んで映る。
人は想像に生きるには余にも短い「人生」。
それ故に忙しく「心」を「亡くし」人であることを忘れれ・・・・・・
そして、また「心」を「亡くす」。
時に歓喜し、時に打ちひしがれ、そして時に刹那に彷徨う。
憎しみ、呪い、虐げ、あらん限りの怨念を擡げながら慈悲を繕う。
やめよう、やめよう・・・・・・
生きることなんかやめよう。
生きることなんかやめちまえばいい。
生きることをやめた時・・・・・
本当の「人」になれるのかも知れない。
せめて・・・・・
生きることへの欲望を捨てた時、
本当の「人」になれるのかも知れない。
さもしい心のままはそのまま滲んで見える。
それは喜怒哀楽の内面に似てそのままに滲んで映る。
人は想像に生きるには余にも短い「人生」。
それ故に忙しく「心」を「亡くし」人であることを忘れれ・・・・・・
そして、また「心」を「亡くす」。
時に歓喜し、時に打ちひしがれ、そして時に刹那に彷徨う。
憎しみ、呪い、虐げ、あらん限りの怨念を擡げながら慈悲を繕う。
やめよう、やめよう・・・・・・
生きることなんかやめよう。
生きることなんかやめちまえばいい。
生きることをやめた時・・・・・
本当の「人」になれるのかも知れない。
せめて・・・・・
生きることへの欲望を捨てた時、
本当の「人」になれるのかも知れない。