2013年03月22日

風化する高崎の街。

風化する高崎の街。



夜店のある風景・・・・・


どうやらこの町、高崎は秀吉、関白宣言の最中に・・・・・

16世紀の半ばに箕輪城から「高崎」に城が移築された頃からが始まりのようだ。

その「高崎」は東は現在の弓町、羅漢町辺りまでで行き止まり。

北は赤坂、南はあら町、若松町までのところだろうか・・・・・

そこには西に烏川を背にした「高崎城」が築城された。

正式な呼称が何であったかは咄嗟には浮かばないが、それを「和田城」とも聞く。

古い地図を見ると面白い。どうも今の「レンガ通」辺りに「県庁」があったらしい。

もちろん、廃藩置県の時代「熊谷県」と、ここ群馬を呼んだ時のほんの僅かな時代だったようだが。

「高崎」の町は町名からしてもその「古さ」が良く分かる。

鞘町、紺屋町、鍛冶町、九蔵町、弓町・・・などとその城下町の様が窺える。

その辺りには幾つもの「寺」がひしめき合うようにして甍の波が。

今にして思えば、この「高崎」と言う町は「寺」だらけ、「墓」だらけの町だったようだ。

八間道路の「夜店」。今で言ったら「人情市」だろうか・・・・・

まあ「もてなし広場」もいいが、今では閑散としたそこ「八間道路」あたりで繰り広げたらどうだろうか。

その昔には渋川までの「ちんちん電車」が走っていた田町通から、弓町の四つ角までの道幅「八間」。

その道をはさんで大正、昭和と栄えたと聞く、そこを「大類里街道」、そう呼んでいるようだ。

いつの頃であったかは定かではないが、「大類」はその時代は在郷で・・・・・

おそらく、その時代の百姓の次三男は高崎に奉公にでも出されたのではなかっただろうか。

僕が物心ついた頃にはその「八間道路」、夏の風物詩として「夜店」が子供心を躍らせた。

もちろん、テレビなんぞはなく、映画館でさえ東小学校の校庭で夜間に上映された時代の話。

それは「法輪寺」の門前を中心に、露天が縁日の賑わいを創っていた。

その時代、それぞれの家にまだ「風呂」などと言うものはそうはなかった時・・・・・

あの界隈だけでも「銭湯」が、旭町の「東湯」、屋号は忘れてしまったが、山田町と椿町の「椿湯」。

それに「八間道路」北通町にも大きな銭湯があった。

戦後、間もない昭和30年の始まりの頃その「銭湯」でさえ贅沢だったのかも知れない。

もっぱら僕らは、タライ行水を浴びて、短尺帯の浴衣を着せてもらい母に手を引かれ行った。

「夜店」はその帰り道、この上ない楽しみであった。

定番の金魚掬い、ヨーヨー、綿アメ、それに多分5円くらいだったか木箱の中で「飛行機」の回るクジ。

焼きそば、お新粉細工、アメ細工・・・・・

ハリガネ鉄砲を器用に作る小父さん、木の鉄砲・・・カーバイトの灯りの下で焼く「焼き饅頭」。

極めつけは、法輪寺の境内で開かれる「のど自慢」と、どう言う訳か「ボクシング大会」(笑)。

兎に角、その「八間道路」弓町の交差点から先は、東、北と戦前から工業地帯で、

開かずの踏み切りには、まるで問答無用のように「SL」が怒るようにして昼夜往来していた。

その辺りは満州帰りやら復員兵のニイサン、小父さんが朝に夜にけたたましく口角泡を飛ばしていた、

敗戦、終戦から10年、15年といったそんな時代であった・・・・・

その時代、労働者の足と言えば、もちろん「自転車」・・・それさえも贅沢な時代だったかもしれない。

サラリーマンの月給が1万円台の頃の話だから差し詰め「バイク」の値段だ。

僕も自転車を覚えたのは親父の通勤用、「自家用自転車」の「三角乗り」からだった。

駄菓子や華やかりし頃の夜店。ベーごま、ビー球、面子と遊びに事欠くことはなかった。

気づいた時には、そんな「夜店」の風物も消えてしまっていた・・・・・

そんな中、もう一度どうしても食いたいのが「ボタンキョウ」。

薄汚れたガラス瓶の中にプカプカ浮いた奴・・・最後に食ったのが昭和50年の夏だった。

どこにでもありそうな「町」、 それが「高崎」かも知れない。

でも僕にとっての「高崎」は、世界でたった一つの「高崎」なのである。

僕の育った高砂町の横丁には駄菓子屋が数軒あった。

東小学校、東二条通の八間道路から高砂町五本辻の300メートルほどの間に。

その高砂町には「上」と「下」とがあって、どういうわけか「上」はブルジョワ階級(笑)。

そして、「下」はいわゆる「労働者階級」で日雇いのお父さんや、職人さんが長屋に大家族をなしていた。

で、「上」はといえば、当時は「工業地帯」で「水島鉄工」や「小島機械」そんな企業城下町で、

長野堰、大川端では染物業が盛んで、いわゆる「お大臣」だろうか、

今でもその「上」には豪邸が立ち並び、そこにその名残を残している。

で、「下」には、そこは「横丁」で、定番の駄菓子屋が軒を並べていた・・・・・・

山盛、長井、長谷川、戸塚とあった。入り組んだ町名に、九蔵町の中村、弓町の栗原、神田。

その中でも完全に駄菓子屋と言えるのは、山盛、長井、栗原だったろうか。

山盛は、模型専門。模型とは言っても竹籤をセメダインで貼付け、障子紙を翼に貼り、

竹のプロペラをゴムの動力で飛ばす奴だ。

山盛は、どう言う訳か小父さんも小母さんも無愛想で子どもには人気が無かった。

それでも、初刊の少年マガジンはそこ、山盛で買ったと記憶している。
 
で、その山盛りとは長屋続きで、長井という駄菓子屋があった。もともとは、下駄屋を商っていたが、

もっぱら低学年の子どもたちはその「長井」で買っていた。

冬には、「お好み焼き」もやっていて・・・小母さんも面倒見が良かった。

しかし今ではその二軒とも、往時を偲ぶものは何一つも無い。

僕らは「ビー球、メンコ、ベーゴマ」はみんなそこで買った。

雨が降ればその横丁の軒先でベーゴマ合戦。僕らがよくやったのは藤巻箪笥店の軒が「ショバ」であった。
 
長井と言えば、ボタンキョウはもちろんだが、ひとつどうしても忘れられない駄菓子があった。

それは「ソースイカ」である。

今にして思えば、なんとも不気味に着色された代物。スッパイのだけど・・・・・・

今の「ヨッチャンの酢漬けイカ」なんて言うもんじゃあない美味さだ。

僕らはどう言う訳かその先にあった「長谷川」には行かなかった。

どうやらその「長谷川」は女の子専門だったようだ。

その長谷川の手前に「杉山」と言う貸し本屋・・・今で言えば、「TSUTAYA」か。

赤胴鈴の助、いがぐり君、月光仮面・・・よく借りた。遅れても延滞金は付かなかった。

小学校の入り口に「武田」と言う「文房具屋」もあった。

当時は下敷も筆箱もセルロイド・・・兎に角割れやすいし熱に弱くすぐに曲がったりして持ちが悪い。

鉛筆も芯が良く折れたから結構その「武田」繁盛していたようだ。

弓町に行くと小高の床屋、泥鰌屋、タバコ屋、寺田の肉屋・・・そして栗原へと続いていた。

栗原は僕らが小学校の時はまだ無かった。

栗原に気付いたのは、僕の娘たちが駄菓子屋通いを始めてからだ。

その栗原、ご亭主は大工職人の趣で、どうやらオカミさんの内職であったようでこじんまりとしていた。

僕の次女はもっぱら高崎保育所の帰りには必ず、「長谷川」で駄菓子を買って、

そのついでに「ウサギの本屋」で少女漫画の付録を買うのが楽しみだった。

それは昭和50年も暮れようとした静かな時代・・・・・

それは昭和30年代とは異なり、なぜかとっても静かな時代だったような気がする。

もしかしたら、今の時代に似てるのかも知れない・・・その静けさは。

その昭和30年代、東小学校の生徒数は800人を切ることはなかった。

駄菓子屋も、文房具屋も繁盛したはずである。

そして「今」はその全てが終わったかのような風景がそこに・・・・・

風化する高崎の街。

  


Posted by 昭和24歳  at 19:40Comments(5)

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