2012年02月21日

【格差と貧困】埼玉で親子3人“餓死”か?

【格差と貧困】
埼玉で親子3人“餓死”か?




職業・家庭・教育、そのすべてが不安定化しているリスク社会日本。
「勝ち組」と「負け組」の格差が、いやおうなく拡大するなかで、
「努力は報われない」と感じた人々から「希望」が消滅していく。
将来に希望がもてる人と、将来に絶望している人の分裂、
これが「希望格差社会」である。
緻密なデータとともに描かれる、渾身の書下ろし。



格差時代の悲哀…埼玉で親子3人“餓死”か
 いったい何があったのか。20日午後1時20分ごろ、さいたま市北区吉野町2丁目のアパートの一室で、男性2人と女性1人が死亡しているのを、アパートの管理会社からの通報で訪れた埼玉県警大宮署員が見つけた。

 県警によると、遺体は腐敗が進んで死後約2カ月が経過。目立った外傷はなかったが、いずれもやせていた。県警は、住人の60代夫婦と30代の息子が餓死か病死した可能性があるとみて、司法解剖で詳しく調べる。

 夫婦とみられる2人は6畳の部屋、もう1人の男性は4畳半の部屋でいずれもあおむけに倒れ、布団が掛かっていた。部屋は施錠され、争った形跡はなかった。

 家賃を約半年間滞納し、ガスと電気は止められていたらしい。室内には現金はわずか数円で、食べ物もみつからなかった。遺書は見つかっていない。

 さいたま市によると、3人の生活保護の受給記録はなく、相談も受けていなかったという。

 大家の男性(59)は「年配の男性は1年前から腰を悪くし、仕事ができないと言っていた。女性は病弱だった。家賃は滞納していたが、管理会社に任せていて分からない」と話した。

<引用:2012.02.21 zakzak >
ソース:http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/

>さいたま市によると、3人の生活保護の受給記録はなく、相談も受けていなかったという。

まあ、「生活保護受けるくらいなら」いっそ死んだほうが・・・・・

さて、自民党政権から民主党政権になって変わったことは?

まっ、何も変わりませんでしたね、っていうかさらに「冷淡」になった政治の空気。

そら、民主党のセンセ、大変です「マニフェスト」、つまり政権公約、

「できないこともある」

って、そういう問題じゃあないだろぅ、えぇっ?

結局官僚の筋書きだけで、内閣官房にがんじがらめ、まるで、

「そうだったのか」

って、官僚の具申に納得しちゃってる、そんな感じ(-_-;)

>家賃を約半年間滞納し、ガスと電気は止められていたらしい。室内には現金はわずか数円で、食べ物もみつからなかった。

まあ、アレです光熱数ヶ月止められていたら、役所、気づかんといかんでしょう。

だいたい、この寒さだし、そら、東電だって、東京ガスだって「おかしい」と、「変だぞ」と・・・・・

>人々から「希望」が消滅していく。

まあ、これからは就職浪人、そういう格差も生まれてきますね。

知る若者、若者とはいっても昔の若者40代後半・・・・・

もう15年から「アルバイト生活」、それも時給800円とか900円とかの。

いや、何もその昔の若者だけじゃあない。

中小零細企業では今日「賃上げ」なんて至難の業だろう。つまり、超デフレだ。

まあ、本格的「自由社会」なんだろうか、これが・・・・・・

弱肉強食、あたかも弱者を保護するかのような素振りを見せていて、折角の中間層をも、

低層に貶める、なんの手立てもない労働行政の不始末。

あの、民主党政権交代前夜の「派遣村」、その炊き出しはなんだったのか?

つまり、「派遣村」が解決したわけじゃあない、消されただけなのだ。

権力の「不都合な真実」として・・・・・

【格差と貧困】
埼玉で親子3人“餓死”か?


  


Posted by 昭和24歳  at 15:34Comments(0)

2012年02月21日

【雲助バンド】40年ぶりの再会!!

【雲助バンド】
40年ぶりの再会!!



懐かしいメンバーが40年ぶりに全員そろった。
リーダーの鈴木キサブローさん、マネージャーの松村さん、ボーカルの志保君、
ベースの丸山さん、ドラムのオトヤ、ギターのおスエちゃん・・・・・
そして、オトヤの後釜の僕。いつの間にかみんな、昔の顔になっていた。



雲助バンド(上)

お末ちゃんが池袋西口に高崎時代からの彼女、「スミちゃん」と同棲を始めたのはその三ヶ月ほど前のことだった。
池袋駅、その西口から山手通りの方に一キロほどのところだっただろうか、「東京トヨペット」池袋営業所の前の路地を入った、所謂「1DK」と言うやつかだっただろうか。
僕の一人暮らしとは違って「お末ちゃんとスミちゃん」、その愛の巣は青春の物語がぷんぷんしていた。

何の事はない、高崎を出る時既に二人は硬い契りを交わしていたのだった・・・・・
スミちゃんは高校を卒業するとデザインスクールへ入学するために東京へ行くことになっていたらしい。
その時分、流行はじめの「専門学校」へ通う為の上京であったが上手く示し合わせての、
お末ちゃんはミュージシャン、ギタリスト修行の「東京生活」を決めていたようであった。

まさに「神田川」・・・かぐや姫じゃあないが忘れられない一生のアルバムの一ページではなかっただろうか。
と言うのも、今、二人は共に、五〇と五四。そして一姫二太郎の幸せな家庭を築いている。

「専門学校」と云えば、あの時代「セツ・モードセミナー」とか「千代田デザイナー学院」、
そして「東京デザイナー学院」とか、全国から「夢見る若造」が集るようにして、東京へ、東京へと来ていた。
なんのことはない、僕もその「若造」の内の一人だった・・・・・
バンドブーム「GSブーム」も去りロックシーンとしてはハードロック系フォーク系が入り乱れていた頃で、
その頃高崎の時代から目覚め始めていた「ブルース」の、ミュージシャン修行のつもりで一人、東京に出てきた。

その頃のミュージックシーンといえば、なぜかその黒人音楽の「ブルース」が静かなブームを呼び始めていた。
と言うのも、ヴェンチャーズ、ビートルズ、グループサウンズときた僕らの時代・・・・・
それも、アメリカのロックの祭典「ウッドストック」を契機に、ジミー・ヘンドリンクスとか、ザ・バンドとか、
そしてオールマンブラザースとかのように次第次第に「ブルース」にシフトして行った。

もっとも高崎にいた頃から、ジョン・メイ・オール、マウンテン、そしてブリティッシュロックからブルースに変っていった、
エリック・クラプトン、ジェフ・ベックそれらをコピーして自己陶酔の世界に嵌っていたのだった。

「ナベさん・・・これ聴かなくちゃ、これ」

そう言ってお末ちゃん、御茶ノ水のディスクユニオンとかで買い集めた「マディー・ウオーターズ」、「BBキング」、
そしてさらに渋めの「T・ボーン」とかを、何度も何度も僕に聴かせた。
当時は既にダンスホールも下火になっていて、僕らがいつも出演していた「みゆきダンスホール」もその頃は客もまばらだった。もっとも、ブルースじゃあ踊れない、「R&B」じゃあないし(笑)。

「堀さん・・・もっと踊れる曲やってくんなくちゃあ」

ダンスホール「みゆき」のママもその時代の移ろいを感じながらバンマスの「堀さん」こと、
お末ちゃんの兄貴のベーシスト、清美ちゃんにこぼすように言うのだった。

お末ちゃんは先に東京でバンド活動をしていた「オトヤ」と「南阿佐ヶ谷ブルースバンド」のベーシスト「丸山さん」、
そして彼、丸山さんが連れてきた、「キサブローさん」に・・・・・・
「なぎら健壱と缶けり仲間」と云うばんどに参加していた「志保くん」、そんなメンバーで「雲助バンド」と云う、
それはそれは変な名前のブルースバンドを組んで、新宿、荻窪、高円寺など、中央線沿線でライブ活動をしていて、
新宿ロフト、マガジン1/2、西荻窪のロフトとかでブルースをやっていた。

「マガジン1/2」ではブルースバンドとしては当時新進気鋭の「ウエストロードブルースバンド」との対バンもこなしていた。

「ウエストロードブルースバンド」

それは、今ではその筋では多くのファンを持つ、国内トップブルースギタリストの「塩次伸次」さん、
そしてボーカルの「ホトケ」さん、ついでと云っては失礼だが山岸さんは当時未だ学生で店の中を飛び回っていた。
それになんと云っても光っていたのがリズム隊の松本さんと小堀さん・・・・・・
それにブルースハープの第一人者妹尾さんといった豪華メンバーだった。

雲助バンドは新宿の「御苑スタジオ」で練習をしていた。リーダーはギターボーカルのキサブロー。
「雲助バンド」はキサブロー作詞作曲の日本語オリジナルのブルースしかやらなかった。

「参っちゃうんだよな、日本語でブルースだよ」

と、お末ちゃん。お末ちゃんは高崎にいる頃からジョンメイオール、ピーターグリーン、マディーウォーター、
そんな、ディープなブルースに嵌っていたから今一、その「日本語オリジナルブルース」に乗り切れない様子だった。
お末ちゃんはグレコのレスポールモデル、キサブローさんは確か「SG」。
本物のギブソンだったかグレコだったかは記憶は定かでは無いが。

ボーカルの志保君は何でも北陸の方の出身でヒョロットした、コミカルな未だ少年ぽさの残る愉快な奴だった。
なんでも「商船高校」、船乗りの学校を出ていたと云うが「海の男」の匂いは感じさせなかった。
ただ、声は「海」で鍛えたかのようなハスキーでブルースにはうってつけの声をしていた。
ひょうきんで「MC」もかなりいけていて、後で気がついたのだが「なぎらけん壱と缶けり仲間」だったのも頷けた。

丸山さんは、東武東上線の上板橋に住んでいた・・・・・
何度か訪ねた事があるが今風に云えば、フリーター兼バンドマンでどことなく人の良さそうな都会っ子風、そんな趣。
丸山さんは赤穂浪士討入りのようなヘアースタイルで、たしかホンモンの「フェンダープレシジョンベースを弾いていた。
当時は「南阿佐ヶ谷ブルースバンド」のベーシストとして中央線沿線では幅を利かせていたようだ。
荻窪、新宿の「ロフト」、「マガジン」と丸山さんの関係のブッキングだったとか。

キサブローさんは青森、弘前の出身。歌舞伎町のコマ劇場裏のレコーディングスタジオでバイトをしていた。
同郷の彼女と同棲していた。彼女は何でもコマ劇場の裏手の「ミルクスタンド」でバイトをしていて・・・・・・
僕もお末ちゃんも何度か牛乳などをそこで飲んだ事がある。とても愛想のいい「りんごちゃん」だったかな。

で、僕なんだが、何かの都合でオトヤが高崎に帰ってしまったので・・・・・
当時はまだ渋谷「ジャンジャン」でしごかれていた僕だったがその「雲助バンド」を手伝う事になった。

【雲助バンド】
40年ぶりの再会!!

  


Posted by 昭和24歳  at 11:21Comments(1)

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