2010年05月24日

鳩山のバカ殿(笑)。

鳩山のバカ殿(笑)。



まあ、なにがあっても困る人じゃありません(笑)。
ってなわけで、なにがあっても危機感なんてありませんから・・・・・・
辺野古も糸瓜もないわけです。


まあ、鳩山首相っていうだけで、この国のズボラさを象徴しちゃってるわけです。

まっ、小沢も小沢なんですけど・・・・・・

ハッキリいやあ、ニッポンてアメリカの半植民地状態なわけです。

まあ、この先、事と次第でもなければ半永久的に軍事占領がつづきます。

まあ、アメリカ合衆国が世界の覇権国家であることが条件ですけど・・・・・・

つまり、フィリピンから米軍基地撤退とか、韓国からそろそろとかっていう次元の話じゃあありません、

このニッポン列島「不沈空母」は。

超軍事大国、アメリカ合衆国が派遣国家でありつづけるためには極東のこの「列島」は・・・・・・

極めて重要なアメリカ政府の「軍事基地」なんです。

まあ、半植民地状態ですから、完全な植民地じゃあありません。

実に都合のいい「植民地並」っていうやつです・・・・・・・

で、彼の冷戦下もその後も、日本は戦争での人的軍事負担はほぼ「ゼロ」で、

そのスキをついての、「経済大国」です。

その意味でも、軍事的にだけではなくアメリカ政府経済にもニッポンという商人国家は不可欠なんです。

コレまで、その意味でのニッポンのアメリカ政府に対する経済的負担はすでに数百兆円・・・・・・

ハッキリ言って、日本経済がなければアメリカは冷戦に勝利できませんでした(笑)。

で、辺野古なんですけど・・・・・・

辺野古は、

2014年の沖縄海兵隊グアムに移転します。

っていうことに決まってるんです。

もちろん全額、日本政府の負担で・・・・・・

まあ、7000億円とか8000億円とか言ってますけど事実は数兆円規模ですね(笑)。

2009年2月17日に交わされたグアム協定の前文・・・・・・・

2014年までに第三海兵機動展開部隊約8000人とその家族約9000人が沖縄からグアムに移転することを再確認する。

四の五の言ったところで、日本政府はその意味ではアメリカ政府と「一身一体」なわけです・・・・・・

っていうか、「半植民地」。

つまり、ラーメンと半ライスです(笑)。

つまり、グアムができれば、なにも辺野古はいらないわけです・・・・・・

といいつつ、嘉手納の巨大基地はあるし、佐世保、岩国、横須賀、座間、横田、三沢等々と、

戦略基地はなにも沖縄だけじゃあありませんから。

まあ、いずれにしろ、アメリカ合衆国っていうその存在理由は・・・・・・

「戦争」で、世界経済を動かして潤っていくしか道がない国なんです。

まあ、ニッポンですけど、仕方ありませんそのアメリカ合衆国と戦争して負けちゃったわけなんですから。

ところで、わが娘の娘たち、小学校4年せいと3年生・・・・・・・

本気で、日本とアメリカが戦争して、日本が負けたことを知りません。

まあ、「知らなくてもいいんです」は困っちゃうわけですね、そろそろ・・・・・・

で、そろそろ、わが大日本も、代々続いてるバカ殿は止めにしないとイケません(マジで)。

小渕、森、小泉、安倍、福田、麻生・・・・・・鳩山・・・・・・

みなさん、戦争に負けた時の子や孫ですから、戦勝国とは議論になりません(笑)。

鳩山のバカ殿(笑)。

  


Posted by 昭和24歳  at 20:22Comments(0)

2010年05月24日

嗚呼ッ、それぞれの高崎 !!

嗚呼ッ、それぞれの高崎 !!



<高崎市広報:平成16年5月1日号より>



まさにそれぞれの高崎です・・・・・・

ところで今の少年たちにはこの街、高崎にどんな思い出が残るのでしょう。

まあ、「それぞれの高崎」ですから、時代が変われば変わったで、

それなりの「それぞれ」がソコにはあるのでしょうが・・・・・・




嗚呼ッ、あの頃の高崎 !!<元気が一番!さんのコメント>
めぐみんさん 連雀町の交差点の処のおだんご屋さんだと「伊勢屋」さんだと思います。みたらし団子やあんこのだんご、お稲荷やかんぴょうのノリ巻きなんかが美味しかったですね。

「伊勢屋」さんは未だニキビ時代ラーメンを食べに寄ったことが・・・・・・

っていうか、バブル前までその伊勢屋の若旦那が、多分ご両親とおぼし気先代さんと、

まあ、「伊勢屋」といえば「だんご屋」ですから、そのだんご屋にしては趣の一風変わった、

すらっとした、イケメン風にねじり鉢巻きでしばし店先に佇んだりされておりました。

まあ、その後、だんごの「伊勢屋」はたたんで、それはそれはシャレオなオープンカフェ・・・・・・

「エルフリオ」

で、お忙しくされておったような・・・・・・
で、そのエルフリオですけど、たしかスカイビルの1階に移転してかなりの盛況のご様子です。

で、その隣の隣にあった西脇時計店、バラエティーショップ「西脇」ですけど・・・・・・

昭和49年、縁あってその軒先を拝借して「レザーショップ」を広尾より暫し開いておりました。


嗚呼ッ、あの頃の高崎 !!< ひまわり さんのコメント>
私もこんな話に入れてくださいっ(笑) 「スカイラウンジ」・・・憧れながらも行けずじまいでした!地下の食堂街にはよく行きましたよんッ^^ パブゴールドはBカウンターでねッ(*^^)v 24歳さぁ~~~んっ、みんなで集まって懐かしい話しましょ~~~っヽ(^o^)丿

>パブゴールドはBカウンターでねッ(*^^)v

お見それいたしました(笑)。

まあ、私目とは少々時代がたってのことと思いますが・・・・・・

まあ、パブゴールドといえば、カウンターのバーテンさんも売りでしたし、

ソレはソレとして、善男善女、紳士淑女の交流の場であったと記憶しております。

>24歳さぁ~~~んっ、みんなで集まって懐かしい話しましょ~~~っヽ(^o^)丿

いいですねぇ、今度一席設けましょうか・・・・・・ !!???


確認 嗚呼ッ、あの頃の高崎 !!<めぐみんさんのコメント>
懐かしい思い出ですー。連雀町の交差点の所に、おいしい、おだんごや、おいなりさん売っていたんですよね。私は、田原屋で5年間働いていました。その頃は10円で一曲かけられるジュークBOXあったのですよ。。。夜の街が、賑やかで楽しかったんですよね。ミラーボールとかあって。駅前にナポリと言うレストラン??よくそこで、彼とデートしたかな?素敵な彼でした(笑)

>その頃は10円で一曲かけられるジュークBOXあったのですよ。。。

ジュークボックス・・・・・・

レトロな響き、ご機嫌ですね !!

当時はドライブインにも必ずありました、チョイとした喫茶店にも・・・・・・

僕がジュークボックスで忘れられないのは、ツイストの曲で、

♪ 太陽の下の18歳 ♪です↓



ジュークボックスを前に燃えたぎる青春に胸を焦がしたもんです(笑)。

今度、オールディーズライブでもやろうかな !!


嗚呼ッ、あの頃の高崎 !!<元気が一番!さんのコメント>
こんにちは。 田原屋は今のスズランのスポーツファッション館(地下にキャンドゥがある)の所でした。スカイビルのところは中央スーパーだったと思いますが、壁面がガラス張りでエスカレーターに乗りながら外の景色を見下ろせたように覚えています。更地になった新星堂のところは前は十字屋がありましたし、連雀町交差点の所に高島屋ストアと云うのがあって1階にあった、丸くて回転している陳列台からお菓子を選び量り売りをするのが好きでした。

>スカイビルのところは中央スーパーだったと思いますが、

中央スーパーは僕が小学校6年の時にできたのかなぁ !??

もともと貿易会館ビルとかいうのがそこにはあって、その前には「街頭テレビ」が、黒山の人だかり。

高崎で初めてのエスカレーターでした。

その中央スーパー、オープニングセレモニーには読売巨人軍の長島と王がやってきました。

僕は友だちと一目でも長島と王を見ようと中央スーパーに急いだのを今でも鮮明に憶えています。

もう、人だかりはものすごかったわけですけど、普通の人より頭ひとつふたつデッカイ長島と王・・・・・・

拝顔できました。確か王は入団したその年だったのでは。

>連雀町交差点の所に高島屋ストアと云うのがあって・・・・・・

十銭ストア“高島屋”です。

ソレは戦前の昭和からあったそうです・・・・・・

今でこそあたりまえですが、日本で初めてチェーンストア展開したのは実は高島屋なのです。昭和6年に「高島屋十銭ストア」(いまでいう均一ショップ)を開業し、ピーク時には106店舗ありました。

つまり、高島屋とお高崎はそれなりに縁が深かったんですね・・・・・・

あっ、その連雀町の高島屋ですけど、中学の時の同級生ちょい悪のA少年、梅干しを万引きして捕まっちゃいました。

出来心だったとか、あっ、僕じゃありませんよ、まあ中学の時の話です(笑)。

嗚呼ッ、それぞれの高崎 !!  


Posted by 昭和24歳  at 17:39Comments(2)

2010年05月24日

嗚呼ッ、あの頃の高崎パートⅡ

嗚呼ッ、あの頃の高崎パートⅡ



http://reynolds.exblog.jp/13152950/
<上記サイトより拝借>


ある、昭和の街灯り・・・・

“映画館”


すっかり変わっちまった“街灯り”のしじま。

あの時代のこの街はひっそりと静まり返っても・・・・・

どこ彼処に、温かいものがあった。

ソレが今はどうだ、それはコンクリートで塗ったくられた、

冷え冷えとして、人肌のない無機質なソレ・・・・・

これを発展と言うのか。そうだとしたら全く愚かしい。



戦後の昭和に始まった「テレビ時代」は映画の衰退もたらした。

しかしそれでも平成のとまくちまではこの街にも・・・・・・

「小屋」

は細々ながらも木戸を開けていた。

新紺屋町、元紺屋、辺りの“東宝”と“松竹”。

元紺屋の洋画と、邦画を一階と二階に分けた“オリオン座”

オリオン座は僕が小学校4年の時に華々しくオープンした高崎一の映画館だった。

たしか、その建設は井上工業だったかどうだったかの記憶は定かではないが・・・・・・

4年3組の時同級生の北沢君のお父さんがその建設工事にかかわっていて、

担任の新井先生が、

「今度新しくできた映画館、“オリオン座”は北沢君のお父さんが造ったのよ」

とかいって、みんなで拍手をして北沢君のお父さんを讃えたのをかすかに記憶する・・・・・・

そして「おしゃれデパート」の角を入ったところには“電気館”、大映系の上映館があった。

ここいらは僕の中学校時代の通学路だった・・・・・

その電気館のまん前には同級の田代君ちが小料理屋のような商いをしていた。

その隣が須永さんち、そして数軒おいて阿久沢さんち・・・・・

まあ、その時代、昔ならば遊郭だったそこを通学して行くのだから、

今思えば、あの頃のいろんな思い出、可笑しさがこみ上げてくる(笑)。

「ローマオリンピック」の映画を観たのはその“東宝”だった小学校6年の時。

たしか体操の金メダリスト、相原選手は高崎工業出身で大いに高崎も湧いた記憶が・・・・・・

で、たしか同級の島田くんのお兄さんも高工の体操部で、その島田君もだいいぶ自慢していたような(笑)。

“オリオン座”は、アリ・マクグロー(ALI MACGRAW)の「ある愛の詩」や、御存知「大脱走」を観た。
スティーブ・マックィーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、
そして後にテレビ映画「ナポレオン・ソロ」でスパイ役を演じた、デヴィッド・マッカラムetc・・・・・
名優中の名優。しかしすでに鬼籍の方も多い。それは昭和40年代の話だ。

「電気館」はたしかご案内の大映系・・・・・

市川雷蔵モノや怪談モノ。たしか子どもの頃「怪談夜泣き沼」なんていうのを観た憶えがある。

高崎銀座通りアーケードを抜けて鞘町に入るとオノヤ、学陽書房の対面には、新たに東映系の新館ができた。
そこは僕の娘たちが子どもの頃は「アニメ映画専門館」のような趣になっていた・・・・・
名曲喫茶「あすなろ」の並びだ。

あそこは連雀町になるのだろうか、その後、デパート十字屋から、
書籍・楽器・スポーツ専門店”新星堂“へと変わっていった、「銀星座」という古めかしい映画館、というより「小屋」。

まあ、そのしばらくは高崎の文化の拠点だった新星堂も撤退、で、その空っぽになったビルの表札をのぞくと・・・・・
それを示すかのように、「所有者・野中興行」のプレートがそれを教えていた。

銀星座といえば忘れもしない「力道山物語」や「土俵の鬼・若乃花物語」。

それらは僕が小学校3、4年ではなかったか父親に連れられて観に行ったモノクロの世界。

僕が中学の頃は洋画というか、エキゾチックというか、「世界の夜」とか「世界惨酷物語」とかを上映。
やはり通学、その下校時にはそれらの映画の看板、写真を興味津々で覗き見した。

それは、まだその辺りの通りが未舗装の道路。
その辺りといえば、十銭ストア高島屋、なべや、名残としてはお茶の金子園・・・・・
そういえばデパートなるモノも結構あった、その界隈である。

映画館・・・・・・

しんがりは、なんと言っても洋画館「ピカデリー」だろう。
ここでは、クラウディア・カルディナーレの「ブーべの恋人」や、「鉄道員」、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」etc・・・・・
僕の思春期、忘れられない映画がいっぱいあった。

その昔には駅前通にも映画館と言うか芝居小屋があったらしいが・・・・・

それにしても、“109シネマ”、通称「マルキュー」で高崎の映画館は全館、閉館の憂き目にある。
その“マルキュー”でさえ、“イオン・シネマ”の出現でどうも危ないとのお噂。

栄枯盛衰は世の倣い。

仕方が無いと言えば仕方が無いが・・・・・・

嗚呼ッ、あの頃の高崎パートⅡ  


Posted by 昭和24歳  at 16:03Comments(0)

2010年05月24日

嗚呼ッ、あの頃の高崎 !!

嗚呼ッ、あの頃の高崎 !!



風情が違います、風情が・・・・・・







めぐみんさんのコメント<赤羽楽器店>
はじめまして。懐かしいデス。連雀町に田原屋とか、パブゴールド。スカイビルなんて知ってますか?賑やかだった頃を思い出しました。

スカイビルですけど・・・・・・

♪僕の髪が肩まで伸びて♪

まあ、そんな時代ですけど、ちょうど長女が誕生したころですけど・・・・・・

僕は某キャバレーでドラムを叩く傍ら、その「スカイビル」で弾き語りをやってました。

僕が、スタンダードナンバーを弾き語り始めると、

キャンドルサービスです。

ソコは回転レストラン・・・・・・

灯りが消され、満天の星空にキャンドルだけが揺れる。

もちろんお客さんのほとんどが「カップル」です。

ビルの高崎にしたら10階ほどの展望レストラン・・・・・・

「スカイラウンジ」

は、連日満席でしたね、昭和51年夏。

そうです、ちょうどその年の暮れにオープンしたのが・・・・・・

連雀町の、

「パブゴールド」

粋でしたね、当時の若者・・・・・・

っていうか僕らはすでに当時は27歳です。

まあ、若者というか、アラサー直前のプレオヤジでした。

もっぱら、「ブラッディーマリー」でしたね、パブ・ゴールドでは。

当時のコースは・・・・・・

「やきとりささき」で威勢をつけて、末広町の「いろり」で腰を入れて飲んで、

その勢いで、「パブ・ゴールド」でした。

まあ、時には「いろり」の延長で、成田町の「風雷」です。

まあ、仕事が仕事だったもんで、飲み屋は「和風」でしたね・・・・・・

腹ごしらえとくれば、請地の「シャンゴ」、イタメシでした。

まあ、バンドの合間には、「ジンギスカン」だったり、「らっちゃん」だったり。

まあ、当時はその「シャンゴ」、請地から問屋町の田圃の中に移転、新装開店したばかり・・・・・・

「イタメシ」といえば、そのシャンゴと銀座通り、

徳井のおもちゃ屋の路地を挟んで対面の「ピナン」くらいだった。

そういえば、東宝映画館の前に高崎初の回転寿司の「元禄寿司」がオープン !!

一皿、60円だった・・・・・

まあ、デパートもあの時代は盛況でした !!

藤伍、スズラン、八木橋、緑屋、三和、そしてスズラン百貨店とか・・・・・・

藤伍のビアガーデン、スズラン屋上でのコンサート。

平成バブルで街は都市計画の名のもとに完全に破壊され・・・・・・

嗚呼ッ、あの頃の高崎 !!  


Posted by 昭和24歳  at 07:57Comments(6)

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