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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2009年08月16日

八間道路の「夜店」



大きくならないはずのヒヨコ(笑)。

どうやらこの町は秀吉、“関白宣言”の最中・・・
16世紀の半ばに箕輪城から「高崎」に城が移築された頃からが始まりのようだ。

その「高崎」は東は現在の弓町、羅漢町辺りまで。北は赤坂、南は新町、若松町までのところだろうか・・・
西に烏川を背にした「高崎城」。正式な呼称が何であったかは咄嗟には浮かばないが、それを「和田城」とも聞く。

古い地図を見ると面白い。どうも今の「レンガ通」辺りに「県庁」があったらしい。
もちろん、廃藩置県の時代「熊谷県」と、ここ群馬を呼んだ時のほんの僅かな時代だったようだが。

「高崎」の町は町名からしてもその「古さ」が良く分かる。鞘町、紺屋町、鍛冶町、九蔵町、弓町・・・・・
などとその城下町の様が窺える。
その辺りには幾つもの「寺」がひしめき合うようにして瓦の波が連なる。
今にして思えば、この「高崎」と言う町はその戦国時代の古か、「寺」だらけ、「墓」だらけの町だったようだ。

八間道路の「夜店」

その昔、渋川までの「ちんちん電車」が走っていた田町通から、弓町の四つ角までの道幅が「八間」・・・・・・
そこから「八間道路」と呼ばれ、大正、昭和と栄えたと聞く。元々は「大類里街道」をそう呼んでいるようだ。
その昔には荷車が行き交う程度の小路だったようで、
その名残は平成の再開発でほとんど消えてしまたっが、東二条通りの交差点付近に僅かにそれをとどめている。

いつの頃であったかは定かではない「夜店」・・・・・
僕のそれは昭和30年前後。

僕が物心ついた頃にはその「八間道路」、夏の風物詩として「夜店」が子供心を躍らせた。
もちろん、テレビなんぞはなく、映画館でさえ東小学校の校庭で夜間に上映された時代の話。
それは「法輪寺」の門前を中心に、露天が縁日の賑わいを創っていた。

その時代、それぞれの家にまだ「風呂」などと言うものはそうはなかった・・・・・
あの界隈だけでも「銭湯」が、旭町の「東湯」、屋号は忘れてしまったが、山田町と椿町の「椿湯」。
それに「八間道路」北通町にも大きな銭湯があった。
戦後、間もない昭和30年の始まりの頃その「銭湯」でさえ贅沢だったのかも知れない。
もっぱら僕らは、タライ行水を浴びて、短尺帯の浴衣を着せてもらい母に手を引かれ行った・・・・・

定番の金魚すくい、ヨーヨー、綿アメ、それに多分5円くらいだったか木箱の中で「飛行機」の回るクジ。
焼きそば、お新粉細工、アメ細工・・・
ハリガネ鉄砲を器用に作る小父さん、木の鉄砲・・・カーバイトの灯りの下で焼く「焼き饅頭」。
極めつけは、法輪寺の境内で開かれる「のど自慢」と、どう言う訳か「ボクシング大会」・・・・・etc

兎に角、その「八間道路」弓町の交差点から先は、東、北と戦前から工業地帯。
開かずの踏み切りには、まるで問答無用のように「SL」が怒るようにして往来していた。
その辺り、満州帰りやら、復員のニイサン、小父さんが朝に夜にけたたましく口角泡を飛ばしていた時代であった・・・

その時代、労働者の足と言えば、もちろん「自転車」・・・それさえも贅沢な時代だったか。
サラリーマンの月給が1万円台の頃の話だから差し詰め「バイク」の値段だ。
僕も自転車を覚えたのは親父の通勤用、「自家用自転車」の「三角乗り」からだった・・・・・
駄菓子や華やかりし頃の夜店の時代にはやはり、ベーごま、ビー球、面子と遊びに事欠くことはなかった。

ふと気づいた時には、そんな「夜店」の風物も消えてしまっていた・・・

そんな中、もう一度どうしても食いたいのが「ボタンキョウ」。
薄汚れたガラス瓶の中にプカプカ浮いた奴・・・・・最後に食ったのが昭和50年の夏。
真夏の定番の駄菓子で「スモモ」といったかも知れない。
真夏には駄菓子屋ばかりではなくどこのプールの売店でもそれは売られていた。

僕が小学校のころの当時はどこの学校にも“プール”などという贅沢なものはなかった。
高崎には3つの市営だったんだろうか、そんな贅沢なプールがあった。

小学生専用プール。通称「小便プール」と呼ばれていた『中央プール』今の市役所庁舎のあたりだろうか・・・・・・
ちょうど、二中と三中の間の奥まったところにあった。
中学生、高校生専用プールは『昭和プール』。
それは古久松材木の製材工場の裏手にあって、高校生のプール教室などにも使われていた。
そして、今でも残っているのが『城南プール』で、ここは競技用プールで、
当時は中、高の水泳部専用のプールの趣をなしていた。

どこにでもありそうな「町」・・・・・

それが「高崎」かも知れない。

でも僕にとっての「高崎」は、世界でたった一つの「高崎」なのである。

  


Posted by 昭和24歳  at 13:38Comments(6)

2009年08月16日

ここは、中曽根vs福田な街でした(笑)。



まあ、青年将校だかなんだかは知りませんが・・・・・
戦闘したわけじゃありませんので。口の悪い人は「徴兵逃れ」に志願だったとか。
で、そのお仕事は、やはり口の悪い人の話では台湾の南部、高尾とかで、
アレです。まあ、兵隊さんの休憩所っていうか慰安所の番頭さん・・・・・

まっ、帝大法科卒で内務省、役人になったところで当時の話ですから徴兵はあったんじゃあないんでしょうか?
で、その役人の身分のままだったか、海軍短期現役制度により海軍主計中尉に、
ってえことは、主計ですからマネージャーみたいなもんです。早い話・・・・・
で、のちに日本国の内閣総理大臣になったりするわけですから、そりゃあ、そもそも普通の人とはオツムの出来が違うわけです。
まあ、最近の総理大臣はサメの脳みそだとか、鼻スジは通ってるけど噺のスジは通ってない人だとか、ヘナチョコピーとか、
自分を客観的に見ちゃう人だとか、極めつけは漢検初級、絶対、多分不合格みたいな人だとかですから・・・・・
その意味では「昔の人は偉かった」・・・・・
といっても、中曽根康弘元内閣総理大臣は百を超えても生きつづけるんじゃあないか、と思うほどお元気ですけど。

で、敗戦、占領下、官僚に復帰です。で、青雲の志です。「俺がやらねば誰がやる」の勢いで内務省を辞めちゃいました。
まあそれで、昭和22年の総選挙で立候補、初当選。29歳の、そりゃあ好男子で・・・・・
実は僕の育った高砂町というところはその青年将校の隣の町内でして、まあ、その青年将校は北小から高中(高高)ですから、
同級生だった隣んちのおばちゃんなんて、亭主ほったらかしで、追っかけ選挙でしたね。

そりゃあそうです、身の丈は6尺をチョイと欠けるくらいで、スラットしていて・・・・・・
キリリとした眉毛に、キッとしたお眼。それになんてったって、あの、バリトンボイスです。
隣んちのおばちゃん、まあ、終戦直後の話ですからその頃、どこんちのオヤジ、亭主っだって似たようなもんで・・・・・・
ろくなもん食ってないから、痩せこけて、まあ、大体がチビでしたね。
だから、そんなテメエの亭主と比べたってどうしょうもないんですけど、だから、今でいうなら、キムタクと・・・・みたいな(笑)。
で、そんな、若干29歳の青年将校(?)が白馬ならぬ、ペンキ白塗りの自転車にまたがり選挙運動です。

僕が初めてその中曽根康弘元内閣総理大臣を拝顔したのは確か、小学2、3年の頃の選挙じゃあなかっただろうか。
その頃は、中曽根康弘後援会もしっかりとあって、とくに、各町内の婦人会で作る「あやめ会」っていうのが、
そりゃあ、もの凄い(悪い意味じゃあなくて)選挙運動をしたんだとかです。
その時代、昭和33年頃ですか・・・・・もうその頃は白いペンキ塗りの自転車じゃありません・・・・・・
なんと、MGとかいう外車の、それもオープン、ツーシーターのスポーツカーに颯爽とまたがり高砂町五本辻で、演説。
確かその頃はもう、初代科学技術庁長官とかではなかったでしょうか?

まっ、そんな青年将校、中曽根康弘元内閣総理大臣に相対したのが群馬郡金古出身の希代の秀才・・・・・・
幼いころから、「末は博士か大臣か」と、つとに誉れの高かった福田赳夫元内閣総理大臣。
で、極めて優秀なキャリア官僚だった福田赳夫氏ですが、その誉れの通りに、内閣総理大臣になっちゃうわけです。

福田赳夫元内閣総理大臣は昭和27年の総選挙が初陣ですから、青年将校に遅れること5年余でしょうか。
前職は大蔵省主計局長、次官候補。そりゃあ、見たっくれは、青年将校と比べたらっていうか、比べちゃあいけません。
で、アレです。人間にはイロイロ分けがあるもんです。で、そんなわけで、大蔵省を退官しての群馬3区から立候補でした。

しかし、国会議員になってからは青年将校の後塵を拝すとも、政治家、自民党においての出世競争では、
その青年将校を軽く追い抜き、当選4回で自民党の三役に、そして党幹事長、農水大臣・・・・・・・
さらに佐藤政権下では大蔵大臣、外務大臣で、まっ、世にいうところの、 『角福戦争』の勃発。
同じ派閥、佐藤派内での佐藤栄作内閣総理大臣退任にあたっての後継者選び、つまり総裁選です。
まあ、そこで、当時、佐藤派内においても、すでに「田中派」をぶち上げていた田中角栄元内閣総理大臣・・・・・

いわれる、金権選挙。その総裁選には億単位のおカネがビュンビュン飛び交ったとかのお噂です。
まあ、そんなおりもおり、青年将校、中曽根康弘元内閣総理大臣ですけど、まあ、選挙区では宿敵ですから(同じ党であっても)、それはそれなんでしょうけど・・・・・・
中曽根康弘元内閣総理大臣は、「田中角栄」の軍門に下ったとか。
そりゃあ、ここ、群馬3区ではその時の総選挙では・・・・・たしか、「谷間のラーメン屋」にも辛酸を舐めさせられたんじゃあなかっただろうか。
まあ、当時は中選挙区制ですから、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三(いずれも自民)と社会党の山口鶴男の指定席だったから、まあ、今度みたいな騒ぎにはなりませんでしいたけど、それはそれは、世にいう・・・・・・

「上州戦争」でした。

まあ、時代が変われば変わるもんです・・・・・・

そうですか???
福田さんに刺客ねっ、しかもくノ一です(笑)。
そのこと自体、一つの革命ですね。
ある意味、一つの時代の終わりを暗示しています・・・・・・

40年間、中曽根か福田か!!???
福田か中曽根か!!???

を実感してきましたから。 
  


Posted by 昭和24歳  at 08:50Comments(2)

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