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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2009年02月07日

僕の横町“高砂町”

高砂町(上)

大川と染物工場

ここ高砂町には僕らが子どもの頃、「大川」と呼んでいた、箕郷、榛名、そして高崎北部の農業灌漑用水を源流にする「長野堰」が町内を南北に分けるようにして流れていた。
その長野堰は高崎市北部の並榎町辺りからその川沿いに何軒もの「染物工場」が林立していた。
今では観ることもないが昭和四〇年頃まではその長野堰で染色上がりの布を川に流し、さらしながら大きな屋上の物干し台にそれを棚引かせるのが風物、風景だった。

高砂町(上)には、戦前戦中は軍需工場だった小島機械、水島鉄工所があり、昭和の30年代までは忙しくしていた。今では7階建ての市営住宅が建ち、その左手、高崎でも最大規模の染物工場跡には高層マンションが4棟も並んで立っている。

随分と様変わりしたものだと心なしか侘しい。もちろん日清製粉高崎工場も跡も形もない。
その長野堰、大川沿いに、高崎随一の染物工場「川原染物店」があった。
その、川原染物店は僕の同級生「川原君」の家が当時何代続いていたか詳しくは知らないが経営していた。
僕は、小学校の頃その川原君ちの染物工場でよく遊ばせてもらったことを今でも良く憶えている。
高崎一番の染物工場と言うだけあって、それは同じ町内であってもその「横丁」のそれではない。
川原染物店は、あの時代に「勝手口」なる玄関があった。その当時、勝手口などと言う物がある家はそうはなかったのではないだろうか。
その広さは盾には一〇〇メートル近くはあったのではないだろうか。いや、もっとあったかも知れない。
そしてその川原君ちの工場には天を突くような高く、デッカイ煙突が聳え立っていた。

「お店」と言われた正面玄関はまさに名にしおう大店と言った趣で、上がり端の帳場にはその川原君のおばあさんが、高貴な、やはり大店の「女将さん」といった風でいつも「シャン」っと座っていた。
川原君のお母さんは織物では全国でも有数の桐生市の、やはり織物問屋か、染物工場かか、そんな大店のお嬢さんで、高崎に嫁いで来たのだと川原君が言っていた。やはり大店の、良いとこのお嬢様らしく、とてもじゃあないが横丁のオバサン、僕のオフクロなどとは「月とスッポン」、なんとも言えない趣をなしていた。
まあ、戦後のあの時代相当の大大尽だったに違いない。

 電話室

昭和三〇年そこそこで、テレビはあるわ、僕の背丈ほどもあろうと言う「電蓄」、それよりもなによりも驚かされたのが、なんと、家の中に「電話ボックス」があるではないか。まだここら辺りの横丁、どこの家にも電話の「デ」の字もない頃の話なのだから珍しいの珍しくないのと言ったら半端ではなかった。

ガラスの格子戸と、真鍮の重厚な取っ手のついた電話ボックスの扉には「電話室」と重々しく書かれていた。
僕はあまりもの物珍しさにその電話ボックスから出たり入ったりして川原君ちの番頭さんに良く叱られたのを憶えている。
もちろんその頃の僕の家なんかにはテレビなんて言う近代家庭電気製品などはまだなかった頃だったので、なにが楽しみったって、川原君ちで見せてもらう「ララミー牧場」が最高の楽しみだった。
もちろん川原君はそのララミー牧場の「ジェス・ハ―パー」を真似て、本物そっくりのモデルガンを得意げに「クルクル」っと回しながら早撃ちのポーズをとって見せるのだった。

「ララミー牧場ごっこしようぜ!!」

川原君は僕と遊ぶ時はいつもそれを楽しみにしていた。

「ララミー牧場ごっこ」とは、もちろん拳銃の早撃ちの真似もあるのだが、ジェスとスリムが殴り合いの喧嘩をするシーンの再現である。
どっちが、ジェスで、どっちがスリムだったかは――――?
たぶん交代々々だったとは思うがどっちにしても、いつもテレビではジェスが喧嘩に勝つ。そのことで時々僕と川原君、よく仲違をした。

そう言えば、川原君ちにはピアノもあった。
そのピアノを弾く真似をした。と言うのはララミー牧場の「スリム一家」にいていつもピアノを弾いていた爺や、なんとその爺やがあの「ホーギー・カーマイケル」だった。
名曲「スターダスト、我が心のジョージア」の作曲家だと言うことを後々僕の仕事の中で知った時はなんともいえない感動を覚えた。
川原君の本物そっくりのモデルガン「コルト45」とガンベルト。きっと、お父さんに買ってもらったんだろう。僕は羨ましくて、羨ましくて仕方がなかった思い出がある。
その川原君―――
今では会うこともほとんどないが、市役所の幹部になっているようだ。広報に載っていた。
顔つきはお母さんそっくりで、頭髪こそ白いものが大分目立ってはいたが、その笑い顔は小学校六年の時に河原君のお母さんに撮ってもらった川原君との写真、野球のユニホーム姿で笑っている川原君そのものだった。




野球少年でもあった僕と川原君・・・・・


時代の盛衰か、その染物工場は昭和が終る頃にはなくなっていた。もちろん、水島鉄工所も、小島機械も、もうそこにはない。あるのはあのバブルの影を引きずるマンションと、マンション建設計画予定地のままの広大な空地だけになってしまっている横丁の風景。
目を閉じて耳を澄ませば今にも聴こえそうなその「音の風景」が淋しい。


スポーツカー「MG」に跨る若き日の平成の大勲位

高砂町の(上)は広い。(下)に比べたら三倍はあるのではないだろうか。恒例の「毎日元旦駅伝」のある国道356、駒方街道を跨いでもまだ高砂町(上)なのだ。
その辺りどちらかと言うと豪邸の立並ぶ「お屋敷町」の趣き。

高砂町(上)には末広町とは背中を合わせてあの平成の大勲位「中曽根康弘元内閣総理大臣」の事務所があり、その大勲位のお建てになった「青雲塾」なる会館もそこにある。
大勲位と言えば、僕が小学校の頃は選挙と言えば高砂町「五本辻」で決まって演説をしていた。
高砂町の五本辻の辻角には渡辺薬局、魚市場、朝日材木店、堀越専売所と煙草屋、確かそこには赤い郵便ポストが立っていて、向いには鰻の寝床のような飯島靴製造所があった。隣に碓井理容店。
子どもだった僕はよくは知らないがあの辺りの横丁のスーパースターの趣の当時の大勲位。当時は科学技術庁長官。高崎に「原子力研究所」を作る作らないとかの頃ではなかったか。

それは、今から50年ほども昔の話だから、大勲位、その時、御年40なったかならないか。そんな時代のある選挙の時の話だ。
高砂町五本辻での演説に大勲位―――白塗りだったかクリーム色だったかのスポーツカー「MG」(だと思ったが)に、まさに跨るようにして「白馬の騎士」よろしく颯爽と万雷の拍手歓声の中来た。

「え―――、高砂町、そして山田町のご町内の皆さん―――」

白っぽい高級な背広に身を包み、背筋をシャンっと伸ばすと、ちょいと顎を引いた風にして白手袋に襷がけでそう切出した。その襷には「衆議院議員候補中曽根康弘」とある。
まあ子どもの僕らにしてみれば、まだ自動車だって物珍しい時代だって言うのに、なんとスポーツカー、それも「外車」。
格好いいのなんのって半端じゃあなかった。しかも身の丈はそん所そこらの横丁の親父よりは頭ひとつデカイ。
マイクロフォンを握らせればあのバリトンがかった、一語一語がはっきりとした物言い・・・・・・
近所のオバサンときた日には「ぽーっと」なっていたようないなかったような。
それに、高砂町と言えば、婦人会の「あやめ会」。それは「中曽根康弘ファンクラブ」の趣き。
それこそ横丁の玉三郎、と言ったかどうかは知らないが・・・・・横丁、路地裏のご婦人方のアイドルであったことは「間違いない」。
大勲位、お生まれも、お育ちも、高砂町のお隣。末広町の貴公子で、町内、そのご婦人方の中には小学校当時の同級生も沢山居られたご様子で、横丁のオバサンたちの・・・・・

「やっちゃ―――ん、やっちゃ―――ん」

〈素敵―――!〉

と、言ったかどうかは知らないが、そうした黄色い声が耳元に残っている。
きりっとした太い眉毛、目鼻立ちはどう見ても横丁のそれではない。
まあ、大勲位が大勲位だから取巻きの後援者もこの街の名士と言うよりは、ノリノリの「若旦那衆」の趣で、そんな戦後昭和の横丁に、突然として、いきなり大輪の花が咲いたような感じだった。

時々、テレビで見る大勲位―――

大勲位も既に九十路。大分お疲れのご様子。そして、その「あやめ会」とかのファンクラブの横丁のオバサンたちのほとんどは鬼籍に入ってしまっている。

そんな横丁は・・・今はない・・・・・
  


Posted by 昭和24歳  at 19:35Comments(5)

2009年02月07日

郵政疑獄Ⅱ

郵政疑獄Ⅱ

日本郵政の西川善文社長はかんぽの宿について「一般競争入札ではない」と答弁。

鳩山氏は、

「入札という言葉が使いにくくなったが、1回目の入札もどきと、2回目の入札もどきについて、入れ札の原本を見せるように報告を求めた。
見せてくれなければ立ち入り調査しかない」。

さながら野党のような追及だった。

衆議院予算委員会2月6日の審議で、その中でも民主党原口委員の「郵政問題に集中しての審議」の場面・・・・・




衆議院予算委員会2月6日“衆議院ビデオライブラリ”



今回の“郵政疑獄”とは直接の関係はみられないようだが、それは“竹中平蔵元総務相”と“西川善文元三井住友頭取”との入魂ブリである。
もっとも、この「郵政民営化」にあたってはその責任大臣であった“竹中平蔵元総務相”と“西川善文日本郵政株式会社CEO”であったわけであり、
なお、日本郵政公社から日本郵政株式会社、いわゆる郵政の完全民営化にあたりそのトップ、“CEO”を小泉純一郎首相に推挙したのが“竹中平蔵元総務相”である。

ところで、昨年12月発売の“文芸春秋09年「1月号」”に、『麻生総理の器を問う』というインタビュー記事がある。
そこでの渡辺恒雄読売新聞会長それだが、小泉首相観についてのところだが・・・・・
長文ですが抜粋引用させて頂きます。

――――― では、小泉さんは実際に総理総裁に就任してから、心変わりしたということですか?

渡辺―――

そういうことでしょうな。あのときは衆参両院で十分な多数があったから、安定政権をエンジョイしようと思ったんだろう。
それに彼(小泉)には田中派へのすさまじい怨念があった。田中角栄的なるもの、公共事業のバラマキみたいなことへの反感が相当あった。
それから郵政大臣をやったときに民営化論をぶちあげて郵政省の役人に無抵抗不服従されたことがあった。
とにかくそういうものを全部潰してしまえ、と考えたんだ。
田中角栄へのアンチテーゼという意味で、それでよかったんだが、彼は全体としては彼は全体としては大変な間違いをやってしまった。竹中平蔵さんの言うがままに市場原理主義を導入して、どんどんハゲタカ外資を日本に入れた。
これも今日の自民党の危機の原因の一つだね。
僕は竹中さんから直接聞いたことがあるんだが彼は「日本の四つのメガバンクを二つにしたい」と明言した。
僕が「どこを残すんですか?」と聞くと、「東京三菱と三井住友」だと言う。
あの頃はまだ東京三菱とUFJは統合していなかったんだが、「みずほとUFJはいらない」というわけだ。
どうして三井住友を残すのかというと、当時の西川善文頭取がゴールドマン・サックスから融資を受けて、外資導入の道を開いたからだという。
「長銀をリップルウッドが乗っ取ったみたいに、あんなものを片っ端から入れるのか」と聞くと、「大丈夫です。今度はシティを連れてきます」と言った。
今つぶれかかっているシティを連れてきて、日本のメガバンクを支配させていたらどうなったのか、ゾッとする。
結局、日本の銀行はかつての大手二十行が六行になり、そのなかでもメガバンクは三つだけになった。
一方で、行き過ぎたハゲタカ支配の矛盾も露になっり、村上ファンドやホリエモンのような事件まで起きた。
今回のアメリカ発の金融危機で、そうした市場原理主義が間違いだったことがより明確になったわけだが、小泉・竹中時代の負の遺産はやはり大きい。
特に、地方の疲弊だ。アメリカのサブプライムローンにやられて、日本の地方銀行の二十七行が赤字決算だ。
もしそのうちのいくつかがパンクした場合、貸し渋りが深刻化し、地方の零細・中小企業はどんどん倒産する。

抜粋引用終了

つまり、この「かんぽの宿」疑獄も、さきの“リーマン破綻”がなければそのままスルーされたのかも知れない。
実際問題、「郵政の民営化」とは何だったのか・・・・・

それは、渡辺恒雄読売会長が言うように小泉首相のただの「田中派への怨念」だけだったのか。
それにしても、郵貯簡保の360兆円の莫大な資金、国民の掛け金が、民営化、つまり証券化され国家の責任から放たれる・・・・・・

その莫大な資金がどこへどう消えるのか!!???

つまりその郵貯簡保が完全民営化されその“360兆円”の国民の虎の子は「株式という形」に私物化される。
早い話、その“360兆円”の国民の虎の子がいつ何時“リーマン破綻”のように紙屑になるかも知れないという疑念はさらに高まる。

もっとも、この日本国政府にはその前科がある・・・・・・
敗戦だとは言え、国民所得のすべてを奪い、さらに天皇の名の下に300万余の命までも奪い、その60年後、「痛みに耐えろ!!」と戦陣訓のように言った政府。

日本の政官財にはびこる「外資族」・・・・・・
今回はその“外資”が破綻した。米欧、いわゆる“白人経済”がかつてのソ連の社会主義につづいて資本主義も崩壊したようにさえ見える。

さて、どうしたものか・・・・・・
  


Posted by 昭和24歳  at 13:02Comments(0)

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