2008年12月28日

“成吉思汗”と“らっちゃん”

「成吉思汗」

そうだ・・・やっぱり、「成吉思汗」だろう!!

ここは昭和40年代によく通った本格的「ラーメン屋」。何が本格的かはよくわからないが、僕も仕事柄全国のラーメン屋を食っているが、ここ、「成吉思汗」は間違いなく一番!!。

なんと言っても、あの小汚い店の「ラーメン」が格別なのである。

「小汚い、は余計だと」、叱られそうだが、それも昔の話で、今は「小奇麗」・・・・・
どう言う訳かBGMが「ジャズ」と言うのも洒落ている。

その当時はつるっ禿の爺さんが、帳場で「勘定」をする。

「成吉思汗」と、名前の通り如何にも「本場」と云う感じの「ラーメン屋」。
もっともその頃本場のジンギスカンラーメンを知っていたわけじゃあないし、ジンギスカンがラーメンの本場だと言う話も聞いたことはないから確信は無いが・・・・・・
兎に角雰囲気が想像のそれなのだ。

醤油ラーメンだがギトギトに脂ぎったスープに麺・・・これは「絶品!!」。
それに「支那竹」が、日本一美味い。いや、大袈裟ではなく実に美味いのだ。

ただし、ここ「成吉思汗」のラーメンを食べるなら夕方のそれが僕は好きだ。昼はスープはどちらかと云うと「さっぱり」。
やはり、ここは「ギトギト」の「こってり」が美味い。

昭和42年、僕が「みゆきダンスホール」にバンドで出ていた時は何時ものようにここ「成吉思汗」のラーメンを食べていた。
今のマスターは僕より三つ歳上だから、当時、二四歳か・・・・・

今では、主のような「ママさん」も、当時は未だそのマスターと交際中だったか新婚ほやほやだったか、まさにおぼこ娘・・・・・
(だったかどうかは知らないが)そのままの趣。
それでも、店を手伝っていた時は恥ずかしそうにして、下を向いて「注文」を取っていたような気がする。
今では想像もつかないが歳月は「切なくも儚い!!」。

時々寄らせてもらった。そんな古い話をしようもんなら・・・・・

「ヘーーーーッ」

と、そっくり返って、

「グァハーーーーッ」

と、貫禄十分の女将さんになっている。

僕の当時の定番は、「ラーメン&カレー」の合せ技だ。

これが絶妙なバランスで絡み合う。悪いが、今のそれより、昔のそれの方が数段に美味い!!
・・・・・・と、感じるのは僕の年のせいなのだろうか。

しかし、この「ラーメン&カレー」を食すには作法が要る・・・

その作法とは、まず、微妙なバランスで大きめなスプーンに「カレーライス」を適宜な分量を量るように乗せ、「ふっ」っと、口に含む。

そう・・・あくまでも含むと言う技が肝心なのだ。

そこへ、やおらに裂け具合の悪い「割り箸」で、玉のように浮く脂を「さっ」と絡め、口中で、今か今かと迎える「カレーライス」と「合体」させる・・・・・
実に芳醇でマッタリとした香と歯ごたえのバランスの取れた「味」に思わず舌鼓を打つ。それに、カレー・ライスに合い物の「福神漬け」。新進か東海かは知る由も無いがその味は今の物ではない。

やはり「成吉思汗」、ここのラーメンは「閉店間際」のそれが「ゴキゲン」だ。

ついでと言っちゃあ失礼だが、ここの「ワンタンメン」もそん所そこらで食える「ワンタンメン」ではないことを付け加えておこう。

いにしえ・・・・・

その“成吉思汗”を最後に頂いたのは何時頃だったろうか。
たしかお店を建て替えるとかで、鞘モールとかの仮店舗の時だったからかれこれの歳月にはなる・・・・・・
新装というか、新築され店名も変わってすっかりと様変わりしたそこに、娘と出かけた。

「ごめんなさい・・・・・休憩時間なのよ・・・・・」

三十路の長女、次女、そして末娘もそういえばその“成吉思汗”の小上がりでオムツを替えた。
さらに、その昔の禿げちゃピンの大老が帳場を張っていた頃のそれがふと過る・・・・・・
そこにはマシュルームカットの18歳の僕がいる。

5年ほど昔のことだが、僕のライブに協賛をお願いすると、一つ返事で快諾。
最近マスターは見ないがお元気だろうか・・・・・改めて、この場でその時のお礼を言わせていただきます。



「らっちゃん」

中通りの「らっちゃん」が店をたたんでしまったのは残念で仕方がない。

「らっちゃん」は僕が中学に通ってる頃から同じ場所にずっとあった・・・・・
その頃の「らっちゃん」はひとつの店舗を半分にしたような店で、隣は多分「らっちゃん」のマスターの親父さんだろうが「カメラ屋」を商っていた。

いや・・・多分ではない絶対に「らっちゃん」の親父さんだ!!
第一そっくりな「ひょー」っと言う顔をしていたし、よくもこうまで似るものだと思わせるほどの迫力があった。

その「らっちゃん」の親父さんのカメラ屋の小父さんが面白かった。
たしか「浅間カメラ」とかいった屋号だったと記憶する。

「僕、・・・いい物を見せてやるよ」

丁度カメラに興味があった年頃の僕たちで、学校帰りの途中に店を覗き込むと、小父さんが小さな望遠鏡のような覗きメガネのような物を出してきて、

「見てごらん」

と、ニコニコ笑ってる。

覗くと、その望遠鏡、覗きメガネの中で裸のオネエサンがくるくる回ってる。

僕等が「ワーッ」と騒ごうものならその「らっちゃん」のマスターそっくりの小父さん。

「ハッハッハッハーーーー」

と、僕らをからかうように大笑いしていた面白い小父さんだった。

もっともあの時代、昭和三五年当時「カメラ屋」をやろうというのだから相当にハイカラな粋人だったのだろう。

僕が、キャバレー「ニュージャパン」のドラマーだった頃は、毎晩のように食いに行っていたが、その頃にはもう「カメラ屋」はなかった。
その分「らっちゃん」は倍の広さになっていた・・・・・・

「らっちゃん」は、一に「焼きそば」、二に「湯麺」、三、四がなくて、五に餃子。

五に餃子とは言うものの「らっちゃん」の餃子は「カラッ」としていて、薄皮の「もっちり」した、「焼き餃子」。これもそん所そこらの餃子とはその餃子が違う。

本当は「一」に「餃子」を上げたい所なのだが、幾ら美味くても餃子は添えもんである。その薄皮も然ることながらアンコも癖のないのが癖と言った感じの絶品。
何のことはない、僕は何を食べるにしろ、焼ソバであろうが、湯麺であろうが必ずその餃子を一緒に食べた。

しかし、秘伝を継承するお世継ぎは時代の流れか店に立つ事はなかった。

「らっちゃん」の息子・・・大学生だったのだろうか、その頃は休みの時には時々店を手伝っていた。 

どうも、あそこんちは代々男親の「DNA」が強烈なのか・・・・・・
二人の息子、小さい時からみているが、「らっちゃん」は、カメラ屋の親父にそっくりで、息子達は二人とも「らっちゃん」にそっくりと来ている。
「らっちゃん」のママさんは丸顔の品のいいお母さんだったが「男衆」はみんな「ラッキョ顔」。

しかし、あの「らっちゃん」の焼ソバがもう今はない、食えないと思うと寂しいのは僕だけではないはず・・・・・
それぞれの理由で高崎を離れた幾人かの知り合いに聞いても決まってこう言う。

「真っ先にらっちゃんの『焼ソバ』だよな!!」

あのラッキョ顔のマスターも、どうやら草臥れて焼きが回ったのか、それともたんまりと身上残して悠悠自適の隠居暮らしなのか・・・・・・
おそらく今時分は古希も半ばだろう。そう僕らの我が侭に付き合っているわけにも行かないのだろうが・・・

しかし残念だ。またひとつ、大切なものが零れてしまったような気がする。

昭和と言う「ポケット」から・・・・・・
  


Posted by 昭和24歳  at 16:35Comments(5)

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