2008年01月11日

熟年を考える・・・・・

熟年を考える・・・・・

とくに「男」がその尋常ならぬ時代にさしかかっているような。

ある意味「熟女」はいろんな方面で賑やかであるが、
「熟男」というのはさっぱちと耳にしない。

精々が、「チョイ悪オヤジ」とかのそれだが、50も過ぎれば、その「チョイ悪」も形が難しい。
商売人は、四の五の言って、オダテテ、商売にしようと企んでるが、
テレビに出てくるような売れ残りの昔の青年のような真似さえそう簡単には行かない。

もっとも、「オヤジ」ちったって、30も過ぎれば下手なオヤジ顔負けの「ネオ・オヤジ」もいるから、
「チョイ悪オヤジ」の範疇がどこからどこまでなのかがなかなか難しい。

それにしても、年季の入った「オヤジ」には、これからは受難の時代のようだ・・・・・・

そんなこんなで、最近の僕ら世代の夫婦がオカシイ。

この街でもそんな妻が夫を斧を凶器に「殺傷」という事件があったばかりだ。
かと思えばその反対も・・・・・


男女とも“母親”つまり母性の影響は極めて大きい・・・・・・
父親にその影響があるとすれば良くてそれは“反面教師”でしかない。
要するに子どもの成長には“父親”と言う存在は『いないよりいたほうがまし』。そんな程度でしかなく、
かえっていない方がいい時の場合の方が多い(笑)。

“ヒト”が生きる・・・・・
社会生活を送る上においての男、いわゆる“オス”の役割は種の保存・存続以外の用は大してない。
“ヒト”以外の動物の場合は大方がそのようで『それ』さえ済ませてしまえばたいていはお払い箱である。

“ヒト社会”でも実は“そういうこと”がただ隠されているだけで実態は動物のそれと変るところはないのではないか(笑)。
男。“オス”の社会活動は実はその“ヒト社会”の雑用をさせられているに思えてならない。
身体的構造からしてそのような仕組みで、“肉体労働”に適しているようになっている。

“ヒト社会”から『経済』と言うものをのぞけば、そこには自給自足が生活環境しかない。
農業、漁業であろうが工業であろうが・・・・・・
いつの場合も“エネルギー”を最大限に消耗させ、いつしか“労働「苦役が美徳」とされるように“オス”の脳内にはプログラミングされているようだ。

男を見るとき、それにはたしかに「経済的自立が、はこの“ヒト社会”においては最も重要とされているが、
それ以前に“ヒト”として自立しているかどうかのほうが問題ではないだろうか。

このことは、男“オス”という生き物が、他の生き物の社会では見られない“ヒト社会”のオスだけにあると思われる同種同族(属)の殺し合い。

つまり、『戦争』。

少なからず“ヒト社会”のオスの脳内には生存の理由というところには、原始的には「生存競争」からという理由もあったろうが、
その『戦争』という「オス独特の行動」がプログラミングされているのではないか。
またそれをさせているのも実は、女“メス”ということもひとつの事実だろうが。

母親を見ると大体その“ヒト”の男は分かる・・・・・・
母親というものは子ども(オス)を胎内から生み出し二足歩行し、知恵がつきだし、思春期を向かえてもなお自分の従属物であると本能的に思い込んでいる。
そして多くの母親はその成長過程にある子ども(オス)の『甘え』には最大限に応える。
そこのところを男(息子)が、どう母親“メス”に接していくかが、男“オス”の“ヒト”としての「自立」の分岐点ではないか・・・・・・

“妻”に母親を見る男“オス”

どんな無理難題も引き受けてくれる“母親”という存在。
多くの男“オス”は妻“メス”に母親を見る。見てしまう・・・・・・

今盛んに世間は囃す『熟年離婚』。

残念ながら今はその熟年の男に最大限の甘えを許す“母親”はいない。
いたとしても老身の母親でしかなく、最早、そんな“オス”が甘えるかつての“母親”ではない。
40年近く“ヒト社会”の雑用、苦役をさせられ気付けばその社会は一変していた。
既に“狩”の出来ない“オス”を暖かく温めてくれる“ヒト”はどこにもいないことに気付く。

こうなると男は意気地がない。
成熟社会は一人一人が自立する社会なのかも知れない。

変化する社会構造に“溶ける”のか自ら変化に順応し、そうした環境、社会を創るのか・・・・・・
それしかないのではないだろうか。

これからの完全死亡率30年としても遡れば30年昔は20代になる。
20代から今を勘定すればそれは実に長い・・・・・途方もなく長い。

はたして、男、“オス”は「母親」、母性の絶えた社会でどのようにして生きることができるのだろうか。
団塊の世代の母性は、「濡れ落ち葉」を乾燥させてしまうのではないだろうか・・・・・・
  


Posted by 昭和24歳  at 20:19Comments(0)

2008年01月11日

新テロ特措法が成立

新テロ特措法が成立、衆院再議決は57年ぶり。


アメリカとの戦争を実体験した世代・・・・・

あの“アメリカ”との戦争を実体験としたこの国最後の『証言者』・・・・・・・
昨夜、昭和12年生まれの先輩とお話させて頂く機会がありました。

生まれは東京は大田区だと言っておられました。
羽田空港の滑走路工事の日雇い人夫のアルバイト、学生時代にやったとか言ってました。

「“B-29”・・・・・その飛行編隊が最初は通り過ぎていくんだ。
“B-29”の飛行高度は一万メートル。日本の高射砲は届かないんだ。
それでも日本の戦闘機がその“B-29”に体当たりしていく。本当にすごいと思ったよ日本の軍人は。
・・・・・米軍の戦闘機が何かの拍子に墜落してね。アメリカの兵隊は墜落する飛行機から落下傘から脱出するんだ。
子どもながらに憶えてるよ。未だ20そこそこの体格のいい米兵。
大人子どもが寄って集って石を投げたり棒で叩こうとしたり。
そこへ憲兵がものすごい勢いでやって来てそんな俺たちにねっ、

『貴様らーっ、何しているっーーー!!』

ってえらい剣幕で怒鳴り散らしてその米兵を抱えるようにして連れてった。
それはまるで庇うようにしてね。」

年が明けて数えで70になるとか言っていたその先輩・・・・・・
終戦の年には茨城の母親の実家の方に学童疎開していたとか。

「忘れちまったなぁ・・・・・・
食いもんがなくて腹ぁ空かせて、今の“腹減った”のとはわけが違うんだ。
何もねぇんだ、食うもんが、
しかしなっ、新制中学から高等学校、大学・・・・・

考えてみりゃああっという間の戦後の10年。あの頃の日本人・・・・・
すっかり忘れてたねっ、あの空襲やガキの頃に見た焼け野原の東京。
今にして思えば弱肉強食っていうのはあのことを言うんじゃあねぇのかな。
よく“人情人情”って言うけど、そりゃあ、そこそこ食えての話だ。
復員兵は“戦争に負けたの”は軍隊がだらしがなかったからだとか、
満州帰りの母子なんて正直、可哀相だなんて思わなかったね。行く時はみんな入植して金持ちになるような威勢で行ったんだから。

二十歳になったかならないかの復員兵はそれこそ今の暴走族どころの騒ぎじゃあない。
昨日まで銃剣で戦争させられていた。特攻帰りで肩で風を切って団体で闊歩する10代の少年なんだろうねぇ・・・・・
中にゃあカブレて真似しているようなのもいたんじゃあないのか・・・・・
日本中が卓袱台ひっくり返したような時代で無法地帯で俄かヤクザに俄か成金、みんな20代、30代。
あの軍隊時代を過ごしてきた少年・・・・・
おそらく怖いもんなしで、一目散に蹴散らされるのは拳銃構えて喚く“MP”くらいだったんじゃあねぇかなぁ。
なんてったって、天ちゃんよりマッカーサーの方が“偉い”って言うんだからどうにもならない。
『マッカーサーは日本のヘソ、“チン”の上にある」なんていうジョークが流行った・・・・・

昭和30年。
嫁さん貰って、子どもが出来て。40年代になると稼ぎが倍々に増えてく。
あっという間に“○×タイヤ”の支店長でここに住み着いて、家を立てて、車に乗って子ども3人を大学に出して・・・・・・
60年が、終戦60年があっという間だね。

これが大方の日本人・・・・・終戦後の生き馬の目を抜くような世間。
今も変らねぇなぁ・・・・・カネ、カネ、カネ、もちろん俺もそうだったけどねっ。
それが年金貰って。母ちゃんもずっと電電公社に努めてたから結構年金貰ってる。
大きい声じゃあいえないけどなぁっ(笑)。
今の悪いやつらなんて当時の連中から比べたら“ガキの使い”だなぁ。

・・・・・ホームレス?
あんなのは終戦直後どこにでもいた。
それも家中でホームレス。当然そこから這い上がり、のし上がってきたヤツもいるんだろうけどね。
かっぱらい、強盗・・・・・そんなのニュースにもならない。
内地じゃあ大空襲で、戦地じゃあ玉砕ってぇ様だろっ?

国なんていい加減なものであんなやつらの言うことをまともに聞いたりゃあバカを見るだけ。
しかし日本人。人がいいって言うのか、バカって言うのか“コロッ”とお上に騙されている。」

いつも酒が入ると僕のほうからその時代の話に水を向けるんです。
きっと話したいこといっぱいある・・・・・いや、ありそう。
でも大体が良かったことと自慢話(笑)。

終戦直後の焼け野原の話・・・・・・疎開先茨城での“グラマン”機銃掃射の話。
腹をすかして、食いもんもなくて、空襲警報に泣かされて、つらかっただろう話も体験も・・・・・・
なぜか、いつも自慢話になっちゃう、先輩。

もう戦地へ行った人の話はなかなか聞けない。
80歳、90歳、なかなかお会いして聞くなどというわけにも行かない。

今から30年ほど昔には、そんな戦争体験、戦地での話をしてくれた50代、60代のオジサンもいたけど・・・・・・
今はもういない。

新テロ特措法が成立、衆院再議決は57年ぶり。

「戦争を知らない子どもたち」がその道を開こうとしている。

戦争に費やすお金があれば世界の貧困のほとんどは根絶できる。

しかし、戦争なんか止めたら、そこには新たな貧困が生まれるかも知れない。
戦闘機や、軍艦や、ミサイルを作っている会社が倒産して、そこで働く人たちが失業して、その家族が路頭に迷うことになるから。
だから、やっぱり戦争をしよう、戦争をして戦闘機を飛ばして、軍艦を出して、ミサイルで攻撃して・・・・・
もっと、もっと、戦闘機、軍艦、ミサイルを作って豊かになろう。
それが今は一番善い方法なのかも知れない。

この国が「平和」であるためには・・・・・
  


Posted by 昭和24歳  at 15:00Comments(0)

2008年01月11日

“イジメ”を考える・・・・・

“イジメ”の逃げ場所は“家族”

しかし、その“家族”も今は無いのかも知れない。

僕らの時代、昭和30年代の小、中学校でもその“イジメ”はあった。

いや、僕ら子ども社会だけではない。大人社会、一般社会にもそれは蔓延していたのではなかったか。

敗戦、占領で「明日をも知れぬ」、そんな社会・・・・・

軍事体制からの開放の傍ら、僕らの父母世代はその敗戦による国そのものの崩壊。
それは今日の“貧困”などと比べるべくもない僕らには想像を絶する社会であったことは確かで、
その社会が進む中、やはり、戦争で夫を、家族を失ったり、国家策謀の「満蒙開拓」という棄民政策で・・・・・
それこそ、「夢の満州建国」をいい、いざ敗戦となれば自己責任、つまりその“棄民”、国が国民を「棄てる」社会。

そんな混乱に、その意味では「幸運」にも帰還できた家族。
しかしそれは母子家庭だったり、止む無く幼子を満蒙の地に遺棄するか、中国人に託すか苦汁のまま命からがらの故国も地獄さながらの社会に放り込まれた家族だったり。
それでも、そこにはその時代まだ農業立国のこの国にはそんな戦災難民を迎え、保護する「人間社会」が存在した。
また、占領政策の中での「社会保障」は全国に“戦災母子寮”や“戦災孤児院”・・・・・・
そして、里子、里親で養父母を得て安住したそんな戦災孤児。

しかし、そんな境遇にも「イジメ」が醸造されていた。
残念ながら、生き馬の目をも抜かんとする「生存競争社会」の時代、他人の不幸、社会の不幸を思いやれる精神的余裕は誰にもなかったのが実態ではなかったか。
当然、自己保身の主義者の政治家もだが・・・・・・

僕の記憶の中にはいくつかの鮮明なそれがある。

この僕とて、戦災とはいわないが、父復員の後に生まれるが、僕を産むと母はそのまま結果10年余り病に臥す。
そのため、叔母のところに養子に出され、つまり「貰いっ子」の少年期であった。
幸いにもそのことで僕自身がその社会から指されたことはあまりなかった。というのもその時代、僕の育った家の両隣も「それだった」からかもしれないからだが(笑)。

ただ、僕の心に寂しくも残っているのは、その父母たちの友だちの「母子家庭」に対する冷たい感情、言葉。
そして、祭りの時によく目にした白装束の傷痍軍人の寄付行為に対する「白眼」ぶりは今でも脳裏に焼きついている。
その傷痍軍人の人たちはその父母世代だから・・・・・


イジメ

その中のひとつ・・・・・・
小学校3年の時、秋田県の横手から転校してきたK君への“イジメ”。

それは、戦後まだ15年経つかたたないかの時代のこと。
僕ら子どもの知らないその時代の、そんな世間、社会は混沌としていたに違いない。
横手からの転校生“K”君への“イジメ”の原因はほとんど通じない言葉“秋田弁”のせいだった。
どちらかと言うと元気で、腕白そうな“K君”だったがその反面おっとりしていて、勉強の方はいまいちだった。

“K君”へのイジメのピークは、
当時、体育の授業で使っていた“大縄跳び”の縄で“K君”をぐるぐる巻きにして小突いたり、引き回したり。
それでもしばらくは“K君”はされるままに辛抱していたようだったが連日のそれにとうとう大泣きして、クラスで大問題になった。

担任の田中先生にクラス中がこっぴどく叱られた。

しばらくしたある日、僕はその“K君”の家に遊びに行った。
街中で小さな鉄工場をやっていた“K君”の家は、いわゆる“大家族”で、
その時の僕には一体全体、何人兄弟姉妹がいるのか分らないほどだったいっぱい人がいた。

“K君”へのイジメは学年の終わり頃にはすっかり収まっていた。

何年か前の小学校の同窓会で“K君”にそのことを話すと・・・・・・・

「あった、あった、そんなこともあったなあ。
ずいぶんイジメられたぜ、俺、あん時は」

と、笑いながら言った。

“K君”が言うには、自分でも言葉が通じないのは本当に嫌だったと・・・・・・
横手にいた頃はガキ大将でクラスを仕切っていたとも言った。
たしかにその片鱗は体育での運動神経のよさかも窺われ、
その“K君”、中学に上がる頃には身長もぐんぐん伸び、中学の水泳部では県大会にも出るほどだった。

「俺んちはなぁ、あの頃は兄弟いっぱいいたから、イジメなんて学校の時だけ我慢すりゃあよかったんだ。
だけど、そんなこと兄貴や親父、オフクロに言った所で反対に怒られたよ・・・・・多分。
とにかく喧嘩して泣いて帰えりゃあ家に入れてもらえなかったんだから俺んちは(笑)」

髪型をオールバックにして、工作機械の問屋を経営する今の“K君”。
そんな遠い日の自分を話し出した僕を“懐かしそうに”見つめた。

「しかしオマエよく憶えているなあ」

そういうとグラスのビールを“ググッ”とあけると・・・・・・

「オウッ」と。

さあ飲めと言わんばかりに僕にグラスを突き出した。


時代が違うと言ってしまえばそれまでだが、

今はそんな子どもを鍛える“家族”、それと“近所”と言う、最小単位の社会が無い。
学校から帰っても一人ぼっちで、塾通いか習い事に通うだけで、あとはTVゲームに興じるかテレビを見るか、
そして親の口癖は“勉強”の二文字だけ。

家族社会に欠落するモノ、
ひいては近所、そこに生まれるはずの“子ども社会”が失ってしまったもの。
その代償は計り知れない。

それは、現代の子どもたち、未来の社会、大人、この国にとって極めて憂慮されるべき問題ではないだろうか。

その意味では、今日の学校教育という、“教師社会”もそうした何かが失われた“社会”で育った子どもたちで構成されていると言う現実。
社会を窺い知ることさえなく、閉ざされた“教育界”という社会にだけ生きる・・・・・・
そのことへ、現実社会との交わりがなければ、いくら言葉でそれを批判、論評した所でその現実の連鎖に歯止めは無い。

そんな、教師の中途退職が、今、増加の一途だと言う報道。

子どもの“イジメ”に乗じる軽薄な精神の教師。
児童に性的好奇心を募らせる大人であるはずの教師・・・・・
いくつになっても、その“教師社会”では一般社会から見れば未成熟な“聖域社会”、閉ざされた社会と思われても仕方がない。

僕らの時代から鑑みると、教師になった連中。

その教育界で“長”の地位にいる連中ほど子どもの頃は“受験戦争”の尖兵で、他を押しのけてでも“いい学校”へという・・・・・・
思えば、“僕ら”と泥だらけになって戯れることはなかった。
言い過ぎかもしれないが“他人”の心の悲しみや苦しみに思いを馳せる感情が希薄で、
そうした想像力の失せた人間の集団が公教育の環境に潜んでいるのではないだろうか。

悲しいかなそれを求めるようにして作り上げてしまった教育と言う“行政”。

なにか事が起こると校長が、教育長がその児童生徒を論評し、詫びたりするが、
そもそもが、一生徒のことを校長が分るわけがない。
ましてや教育長が分かるわけがないではないか、それこそなにをか況やである。

そうした“イジメの構造”は今の日本社会に沸々としているような、
全ての教師、教育者がというのではない。
しかし、それが「あってはならない」のがもう一方の側面からの、まさに、そこが「聖域」だからではないのか。
その意味で、子どもたちにとって「教師」、「恩師」はその生涯に大きな影響を与えるからだ。


好景気を言う政府、この国は素晴らしいと言う階層。

その反面、この町を例のとれば、
郊外に展開する“イオン”の巨大ショッピングモール。そこに、旧市街の商店街は戦々恐々としている。
いや、確実にその街は潰されて行くだろう・・・・・
それを“淘汰”というのだとしたら、行政の犯罪性は看過できる問題ではない。

町を空洞化させドーナツ化のそのドーナツのさらに外側に巨大な“核”を作る。
そしてそれを行政、“市の発展”と祝賀するその光景に、はたして“人”としての未来はあるのか。

それも行政の改革、規制緩和、そしてその「大店法改正」は・・・・・・

行政の“町”の商人イジメ。

“イオン”なる豪商の前には地方の小商人など物の数ではないのだろうから。

通産官僚出身の“民主党元代表”岡田克也はこれをどう言い訳するだろうか・・・・・
その、地域に貢献する“イオン・グループ”の御曹司、岡田克也の言葉を待ちたいところだ。
  


Posted by 昭和24歳  at 05:46Comments(0)

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